連載「少年と午前二時」(全話無料)


 食パンに何もつけないで食べることは、きっとおかしいことなのだろう。アンケートを集計すれば、大多数の人間がマーガリンなりジャムなりを塗って食べると答えるはずだ。いや、わからない。僕の思いこみかもしれない。
 
 リビングのテーブルに腰かけ、ふにゃふにゃ柔らかい6枚切りの食パンをそのまま齧る。いつもと味がちがう気がして、パッケージをたしかめたけれど、いつもと同じ食パンだった。トースターはあるけれど、使わない。焼いたからといって、何になるのだろう。マーガリンだって、ジャムだって、塗ったところで甘いだけだ。
 
 1階からトイレのドアが開く音が聞こえ、床を見つめた。父親か母親のどちらかはわからないけれど、最近、夜中にトイレに起きることが多い気がする。僕の物音で目が覚めてしまうのだろうか。掛け時計を見れば、午前2時だ。僕は朝食の食パンを半分だけ食べて、燃えるゴミの袋に捨てた。
 
  *  *  *
 
 半年前、中学1年の3学期に、母親は僕を病院へ連れて行った。
「朝起きられないんです」
 
 母親は、か細い声で医者に伝えた。母親のあんな声は、聞いたことがなかった。受付の女にはふつうの声で話していたのに。
「起立性調節障害かもしれません」
 
 そう言う医者の目はパソコンの画面を見つめていたけれど、たぶん、医者の目には何も映っていなかったと思う。あの男は僕の目を一度も見なかったけれど、僕は何度も男の目を見た。むだにスースーする飴みたいな目玉だった。僕はそんなわけのわからない病気じゃない。僕はただ、学校に行きたくないから朝起きなかっただけだ。
 
 冷蔵庫を開けて牛乳を出す。牛乳の奥にはラップのかけられた夕食が入れられている。皿の端に隙間が生まれないようラップがぴったりとかけられているのを見ると、ここまでしなくていいのに、と僕はいつも思ってしまう。
 
 牛乳をコップに注ぐ途中、牛乳がきらいではない自分は恵まれているのかもしれないと気づいた。もし牛乳がきらいだったら、それだけで給食の時間が苦痛でたまらなかったかもしれない。ふと、牛乳が飲めない吉井くんを思い出した。彼はいつも牛乳を残していた。それでも彼は給食のとき、いつも楽しそうに話していた。やっぱり、学校や給食が苦痛であることと牛乳がきらいであることは、関係がないのかもしれない。
 
 水で軽く口をすすぐ。口から垂れた水を指でぬぐう。最後に歯を磨いたのはいつだっただろう。このまま磨かなければ、歯はすべて抜けてしまう。そんな想像が生まれたけれど、それならそれでもいいと思った。噛まなくても食べられるものなんて、腐るほどある。
 
 3階の自分の部屋に戻り電気をつけると目が眩んだ。昼夜逆転する前は、この照明をこんなに眩しいとは感じなかった。薄目で机の上の赤いカラースプレーと家の鍵を手に取り、電気を消し、部屋を出る。階段を降りる音は、響かない。音を立てないように気をつけているわけではないのに、音が出ない。父親と母親が階段を上り下りする時は足音が聞こえるのに、なぜだろう。
 
 スニーカーを履いて玄関を開けると、冷たくも暖かくもない外の空気が鼻に入ってきた。鼻の粘膜が、少し震えた気がした。鍵穴に鍵を差しこんで、まわした。鍵をかける音は、深夜には目立ちすぎる。
 日中、中学校に通学する生徒で溢れる住宅街の通りには、誰もいない。空を見ても、下を見ても紺色だ。僕は赤いカラースプレーを地面に向けて一瞬噴射して歩く。10歩、歩いたら、また一瞬だけ噴射する。ふり返れば、紺色の中に赤い点々が、ぽわんと浮かんでいる。(つづく)

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(あまの・ひろふみ)
1986年生まれ。小学2年生より不登校。2008年、「灰色猫のフィルム」で第32回すばる文学賞受賞。「すばる」11月号に最新作掲載。
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