不登校新聞

424号 2015/12/15

【公開】小説「少年と午前二時」 天埜裕文 vol.3

2016年01月13日 12:14 by kito-shin
2016年01月13日 12:14 by kito-shin


連載「少年と午前二時」(全話無料)


 一度だけ、誰かが夜中にシャワーを浴びている音を聞いたことがある。ちょうど今くらいの時間、3時半ごろだった。布団の中、ふと目が覚めると、わずかに聞こえた。どこから聞こえているのかはわからなかったけれど、僕の家からではないことはわかった。とすると、隣の家からなのだと思う。
 
 でも、いくらみんな寝静まった夜中とはいえ、隣の家からシャワーの音など届いてくるものなのだろうか。もしかしたら、あれは夢だったのだろうか。
 
 記憶を疑いながら、頭を洗う。目に入ったシャンプーが少しだけしみる。顔にシャワーを当て、泡を流す。閉じたまぶたの中に、誰かの姿を映す。僕がシャワーを浴びている音も、誰かが今聞いているかもしれない。
 
   *   *   *
 
 シャワーを出、服を着て、濡れた髪をバスタオルで拭く。半年切っていない髪は少し伸びすぎた。ドライヤーで乾かすのも一苦労だ。洗面所の鏡に映る僕の髪が上下左右に揺れる。
 
 「……」
 
 突然視界の端に現れた父親が、僕に何かを言って去った。ドライヤーの音に掻き消され、何を言ったのかは聞き取れなかった。
 
 いったい、父親は僕に何を言う必要があったのだろう。わざわざ就寝中に起きて、何かを伝えに来たのだろうか。それともトイレに起きたついでだろうか。ひさしぶりに父親の顔を見た。最後に父親と接触したのはいつだっただろう。思い出せない。
 
   *   *   *
 
 「おまえはナマケモノだ」
 
 学校に行かなくなってすぐのころ、朝になっても布団から出てこない僕に父親はそう言った。部屋のドア越しだったけれど、その声は、はっきりと聞こえた。

 その声を聞き、僕は首までかけていた布団を耳まで上げた。少し、息苦しくなった。うまく呼吸できないまま、ただ目をつむっていた。外からは登校途中の人間の話し声が聞こえていた。通学路にある僕の家を見て指さし笑う人間の顔が、まぶたの裏に映っていた。気づけば、僕は父親を殴るために布団から出ていた。部屋のドアを開け、父親を探した。3階にも2階にも1階にも父親はいなかった。すでに会社へ行くために父親は家を出ていた。殴る対象を失った僕の手は、父親の代わりに廊下の壁を殴っていた。父親を殴ろうとしたのも、廊下の壁に穴を開けたのも、あれが最初で最後だ。擦り剥けた手の皮は、ずいぶん長いあいだ元に戻らなかった。
 
 「手、だいじょうぶ?」
 
 洗面所で血を洗い流している僕に、母親は言った。僕は答えなかった。水の音が少し母親の声に覆いかぶさったけれど、声はちゃんと聞こえていた。それでも僕は返事をしなかった。排水口に流れていく、透明な水だけを見ていた。手なんか、どうだってよかった。
 
 ドライヤーを置いて、ブラシを長い髪に通し、洗面所の電気を消す。代わりに、廊下の電気を点ける。手の皮は元に戻ったけれど、壁の穴は元に戻らない。
 
 「おまえはナマケモノだ」
 
 この穴を見るたびに、あの朝の事が再生される。廊下の電気は点けたまま、自分の部屋に行き、ちょうどいい大きさの物がないか探した。数ページしか使用していないノート。漫画。宿題のプリント。できれば学校を連想させない物がいい。僕は漫画を手に取り、一ページだけ破った。
 
 セロテープで漫画を貼りつけ、壁の穴を隠していく。雑に破った漫画の一ページの中では、魔法使いが魔法を使っている。もし僕にも魔法が使えるなら、どんな魔法がいいだろう。そんな事を考えたけれど、意味がないと気づいてすぐにやめた。
 
 「おまえはナマケモノだ。おまえはナマケモノだ」
 
 さっき父親は僕に何を伝えようとしたのだろう。気になるけれど、きっと僕はそれを聞かない。(つづく)

■著者プロフィール/(あまの・ひろふみ)1986年生まれ。小学2年生より不登校。専門学校を中退後、執筆した小説「灰色猫のフィルム」が第32回すばる文学賞を受賞(2008年)。「すばる」11月号に最新作も掲載されている。

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