連載「少年と午前二時」第1話へ(全話無料)


 食パンが、ジャムもマーガリンも何も付けられていない状態で売られていることは正しいと思った。誰もが美味しいトーストを食べたいと望んでいるわけではない。味を必要としていない、味を邪魔と感じ、嫌っている人間だっているのだ。どこの誰がそうしようと決めたのかはわからないけれど、この食パンが白いまま透明な袋に包まれていることに僕は感謝した。
 
 朝食の食パンを3分の1だけ食べてキッチンのごみ箱に捨てる。ばさっ、という、わざとらしい音が真夜中に響く。時計を見れば、深夜2時だ。
 
 食パンに水分が吸い取られて口の中が乾ききっているけれど、もう何も飲まなくてもいいと思った。冷蔵庫の扉を開けるのも、コップに飲みものを注ぐのも、めんどうだった。わずかに滲み出てくる唾液を舌の裏で感じながら部屋に戻って、赤いカラースプレーだけを手に取り、寝間着のままそっと家を出た。
 
 誰もいない通学路を、低い足音で歩く。住宅街に灯っている家の明かりは数えるほどしかない。紺色のスニーカーが地面と空の色に同化している。下を向いても上を向いても大差がないならこんな首なんていらないなぁと首筋を爪で掻いて、赤いカラースプレーを地面に噴射する。一瞬だけ吹いて、数歩進んで、また吹く。ふり返れば僕の後ろには赤い点々がいくつもあるけれど、どれが今噴射したものなのかはわからない。あの赤い点は昨日のだろうか。この赤い点はおとといのだろうか。そもそも夜の通学路を歩くのは、何度目だ?
 
 「だからライトじゃなくてスーパーライトだってば」
 
 声が聞こえ、僕はとっさにスプレーを背中に隠した。数十メートル先、電柱の陰で、女が電話を耳に当てている。
 
 「ちがう! メンソールじゃなくてふつうのマルボロ!」
 
 遠目から見ても、女は間違いなく担任の先生である事がわかった。こんな時間に、いったい先生は何をしているのだろう。
 
 「え、ない? ふざけんなよ! ないわけないだろ! よく見ろよ!」
 
 僕が目の前を通り過ぎたら、先生は僕に声をかけるだろうか。「ひさしぶり、元気?」と微笑むだろうか。「こんな時間に何してるの?」と心配するだろうか。「早く学校においでよ」とうながすだろうか。
 
 ちょうどいい機会だと思った。ときどき家に電話をしてくるのはもうやめてくれと言おう。
 
 母親と何を話しているのかはわからないけど、わかるんです、母親が電話口で話す内容で電話の相手が先生だってことが、何を話してるんですか? 僕の様子を探ってるんですか? いつになったら登校してくるのかと尋ねてるんですか? 先生が電話してくればしてくるほど、僕は学校と距離をとりますよ、迷惑なんです、おそらく母親も迷惑だと思っているはずです、先生も仕事だから仕方なく電話してくるんでしょうけど、まったく意味のない行為です、同情します、同情しますよ先生に、無意味な電話を何度もしなければならない先生に……。
 
 伝えるべき言葉を整理しきれていないうちに、僕は女の前へやってきてしまった。
 
「何?」
 
 女は電話を耳に当てたまま僕を睨み、言った。女は、先生ではなかった。似ても似つかない顔だった。そもそも先生は喘息持ちで煙草の煙が世界で何よりも嫌いだと、女子生徒との会話で主張していた。
 
「すみません」
 
 一言だけ謝って、女から離れた。後ろから聞こえてくる、僕を罵倒する声を無視して歩く。角を曲がったところで女の声が聞こえなくなる。僕はシャツの中に隠していたスプレーを出し、地面に噴射する。一瞬吹いては数歩進んで、また吹く。先にも、後ろにも、赤い点々が通学路に浮かんでいる。前方の自販機の前では、二学期で隣の席だった原田さんが財布の中の小銭を探している。(つづく)

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■著者プロフィール■
(あまの・ひろふみ)1986年生まれ。小学2年生より不登校になる。専門学校を中退後、執筆した小説「灰色猫のフィルム」が2008年、第32回すばる文学賞を受賞。