高知にて行なわれた登校拒否を考える全国合宿。そのなかでは不登校・ひきこもりの子を持つ親4人がシンポジストとして登場。今号はシンポジウム「私たちが子どもから受け取ったもの」の講演抄録を掲載する。
自分らしく生きて
息子が不登校になったのは、中学1年生のとき。2学期に入り、「お腹が痛い」と言い出しました。その後も登校時間が近づくと腹痛が起こり、学校に行けないということが、しばしばありました。原因を明らかにしなければと思い、病院で検査を受けるなどさまざま手を尽くすものの、何度検査しても問題なし。親として気ばかり焦るなか、埼玉県にある親の会「越谷らるご」と出会ったんです。そのとき、私はやっと腑に落ちたと感じました。
というのも、東京の病院など、いろいろな機関に相談しに行ったんです。ところが、何かちがう。誰に話しても、同じ目線で話を聴いてもらっていないというような消化不良感が残る。
さらに言えば、支援する人・される人という固定した枠組みに、強い抵抗感をおぼえることもありました。一方で、「越谷らるご」はちがいました。同じ悩みを持つ者どうしの目線は同じで、支援する・されるといった関係もない。何となくですが、自分たちの進むべき方向性が見えてきたように感じられました。
中学3年生のとき、息子が突然「音楽の学校に行きたい」と言い出しました。学校の先生からは難しいだろうと言われていたのですが、受験をしました。結果は、うまくいきませんでした。翌年、高校受験もトライしたのですが、それもうまくいかず。そのころは私との関係も一触即発で、本人も不安定でした。
つらいのは息子なんだ
当時のことで、いまでも反省していることが一つあります。「本当につらいのは息子なんだ」という認識と想像力が自分に足りなかった、ということ。いつも「なんでこの子は私のことを困らせるのだろう」と、自分の悲壮感ばかりを優先していたんです。それが息子にも伝わっていたんだと思います。息子のつらさをおもんばかってあげられなかった。というのも、わが子から「死ね」と言われると、本当につらいんです。死んでもいいかなって心から思えるときもありました。
あるとき、たまりかねて「死んでもいいから殺してくれ」って言ったことがあります。それが伝わったのか、その日を境におたがいの緊張状態が山場を越し、おたがいのことを少しずつ思いやれるようになったような気がします。
不登校した後の将来をどう考えるか。それはみなさんのお話にもあるように「自分らしく生きてくれればいい」ということだと思います。ある親にとっては「不登校した後、高校や大学に行って就職した」という話が大きな励みになることがあります。一方で、うちの子のように、「学校も行かないし、ときどきアルバイトをするなかで、自分らしく生きているよ」という話に支えられる親の方もいらっしゃるかと思います。
息子のために申し添えますが、その後、独学でピアノが弾けるようになりました。ベートーベン、ショパンなど弾けちゃうもんなんですね。それ以外にもさまざまなことに興味を持っています。どれも仕事には直接結びつかないかもしれないけれど、親として息子の思いをできるかぎり支えていきたいと思います。
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