事件が問うたもの
「アイ・メンタルスクール事件」はさまざまな問題を社会に投げかけた。
第一に、「ひきこもり」とは何か、という問題提起である。ひきこもりは、どんな目にあっても、なおすべきことか。当事者のなかには「自分も家族によってこうされるのか」という恐怖感を持った人もいたし、家族として「なおそう、なおそう」という考え方にとりつかれたら、「ああなるのね、われに返った」という人もいた。ひきこもりを治療や矯正の対象とする系譜は根強く、それへの警鐘をならした。
第2に、矯正、教育とは何か、である。このような人権無視が、その名のもとで許されるのか。もし、世田谷のこの青年が死というかたちで社会に知らしめなかったら、いまもまだ、預け続ける親がいて、縛られたり、殴られたり、トイレにも自由に行けない青年たちがぞくぞく出たのではないか。青年たちは従うしかなく、そのうち「自分がダメだからこんな目にあってもしかたがない」と、自己否定感を巨大にした実例を知っている。
第3に、なおす、自立させるという施設とは何か、という問題だ。杉浦昌子の姉は、妹と同様、「長田塾」という施設を経営している。しかし、同所から逃げ出した青年の告訴で、人権を無視した取り組みが明るみとなった。裁判では、本紙理事・多田元弁護士の活躍で、それらが暴かれたのは記憶に新しい。戸塚ヨットスクール、不動塾、風の子学園、京都ナチュラルスクールなど、みな似た施設であるが、「親の手に負えない子どもを預かる」という触れ込みで成り立つ施設とは何か、という目がなければ、大金を振り込んで、わが子は犠牲になるだけである。
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