連載「少年と午前二時」第1話へ(全話無料)
もう何分間、僕の手は食パンを持っているのだろう。昨日から、何も食べていない。何か胃に入れなければと思えば思う程、食べたくなくなる。せめて飲み物だけでも飲もうと冷蔵庫を開ける。母親の用意した食事が、ラップに包まれている。スポーツドリンクをコップ1杯飲んで時計を見る。ちょうど、午前2時だ。
時計の横の安っぽいカレンダーに、メモ書きを見つけた。今日の日付の下に小さく「橋本さん」と書かれている。母親の字だ。わかりやすすぎてうさん臭い笑顔が、カレンダーの数字に重なって見えた。
赤いスプレーを手に家を出る。紺色のスニーカーが地面を踏む。通学路は、もう、赤い点だらけだ。あの人が飛び降りた8階建てのマンションを、歩いて通りすぎることはできなかった。広いエントランスの前を駆け抜けると、少し走っただけなのにめまいがした。何も食べていないせいだろうか。
たまに現れる黄色い点に重ならないよう気をつけながら、赤いスプレーを地面に吹く。このあいだ女が電話をしていた電柱の陰には、誰もいない。もうじき、原田さんが飲み物を買っていた自販機が見えてくる。あれは、本当に原田さんだったのだろうか。今日、原田さんはいるだろうか。
「それ、楽しいの? スプレー」
とっさにふり返ると、電柱の陰で電話をしていた女が微笑んでいた。
「あれ? この前みたいに逃げないんだ?」
女の顔を見た途端、なぜか、泣きそうになってしまった。怖いわけではない。悲しいわけでもない。一瞬で、女の顔が滲んだ。
「楽しいからやってるわけないじゃないですか」
僕の声は思ったよりも小さくて、ところどころ震えていて、恥ずかしかった。
「まぁそうだよね。いや、てっきりまたすぐに走って逃げるんじゃないかと思ってたから、びっくり」
どうして僕は逃げないのだろう。逃げようと思えば、今すぐにでも、逃げられる。
「ちょっと見して、それ」
女が赤いスプレーを指さす。手渡すと、シューっと地面に噴射した。赤い線が、赤い点を覆っていく。女は楽しげに、通学路を染めていく。子どもみたいな笑顔だ。
「僕、学校に行ってないんです」
声に出したのは、初めてだった。また、泣きそうになってしまった。声は思ったよりも小さくて、ちゃんと聞こえたか不安だったけれど、女は、そう、と返事をしてくれた。
「驚きましたか?」
「そうだね。ふつうはみんな行くからね。学校」
驚いているようには見えない。ひょうひょうと、地面にスプレーを吹きかけていく。
「いきなりそんなことを告白するのにもびっくりだけど」
「お姉さんは学校行ってましたか?」
「行ってたよ。大きらいだったけど」
スプレーは急速に勢いを失って、色を噴射することをやめた。シューっという音だけ、鳴らしている。
「ごめん、なくなっちゃった」
だいじょうぶです、と答えて空になったスプレーを受け取る。
「僕、学校に行ってないんです」
「それはもうわかったよ! さっき聞いたから!」
「僕、学校に行ってないんです」
「だからわかったって!」
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