不登校経験者が不登校その後をどう生きてきたのかを追った連載「私の不登校その後」。今回お話を聞いたのは、NPO法人フリースクール全国ネットワークの事務局長・松島裕之さん(30歳)。不登校した20年前から現在に至るまで、自身の不登校、また「働く」ということについてどう考えてきたのか、うかがった。

小5のGW明けに不登校宣言 行く理由がなくなった


――不登校のきっかけは? 
 「明日から学校に行きません」と親に宣言したのは、小学5年生のゴールデンウィーク明けでした。
 
 それまでは、毎朝どうにか起きてみるけど、お腹が痛くて学校に行けない。だから今日は学校を休むと親に言う。そんな問答を来る日も来る日もくり返していてクタクタでした。
 
 ですから、ゴールデンウィーク中はすごく楽しかった。長野にある祖父の家で遊んでいたのですが、私が不登校しているなんてことは誰も知りません。周囲の視線が気にならないということは、本当に気楽でした。
 
 ですが、終わりが近づくにつれ、徐々に暗い気持ちになるわけです。「また学校に行かなきゃ」ではなく、「また学校に行けないんだろうな」って、明日から悩まなければいけない。おなかが痛いといって学校を休む私をみて両親も悩んでいましたから、「この先ずっと学校に行かないなんて言ったら家族はどうなってしまうだろう」という怖さもありました。とはいえ、家族をおもんばかって、学校に行く努力を続けるのはもう限界でした。

――「不登校宣言」の背景にはどのような理由があったのでしょうか?
 これといった明確なきっかけはなかったです。いくつかのことが積み重なってのことだと思います。
 
 一番大きかったのは、先生。まったく尊敬できなかったんです。勉強ができる優等生の質問や意見にはちゃんと答えるのに、そうでない子どもが同じような質問や意見を言うと「黙ってなさい」と一喝する。このちがいが当たり前のようにある空間ってなんだろうって。当時は「将来のために学校に行かなきゃ」とがんばっていたけれど、「将来のため」というのは漠然としていて具体的なイメージがなかなか持てませんでした。
 
 しだいに、「学校に行けない理由」ではなく「学校に行く理由」がなくなってしまったこと、私のなかではそれが大きかった。それからは3年~4年ほど、ひきこもっていました。

――ひきこもっていた当時、どんなことを考えながらすごしていましたか?
 明確におぼえているのは、15~16歳のころです。高校生年齢になって、「あと数年で自分も働かなくちゃいけないんだ」っていつも考えていました。
 
 私の父はサラリーマン。満員電車に揺られ、毎日同じところに通う父の姿を見て、「私にそんなことができるわけがない、死にたい」って思ってました。いま思えば、なぜ「できるわけがない」と「死にたい」をつなげて考えていたのか不思議ですが、当時は本当にそう思っていました。父同様、「私も22歳になったらサラリーマンになるものだ」と思い込んでましたから、一日一日と、日が経つのがすごく怖かったのを覚えています。

――16歳だと、アルバイトができる年齢ですね。
  不安と焦りから追い立てられるように、「バイトしなきゃ」と思い、新聞の折り込みチラシ片手に電話をかけ続けました。でも、なかなか雇ってもらえない。募集要項に「18歳以上」と書いてあるところも多かったんです。
 
 そのうち、電話を掛けることもつらくなってきて、父に「やる気はあるけれど、年齢がネックになってバイトがなかなか見つからない。18歳まで猶予をください」って言いました。すると父は、「18歳だとか猶予だとか、そういうことにこだわらなくていい。俺の子どもである以上、この家に住むために何かする必要はない」と。それで不安が100%払拭できたわけではありませんが、「どんな状態でも、うちの子であることに変わりはない」という父の言葉に救われた気がしたのはたしかです。
 
 外に出るようになったのはゲームにもマンガにも飽きた17歳のとき。車の免許を取ろうと決めました。自由になる行動範囲を拡げたかったからですが、免許を取るにも車を買うにもお金がかかる。それならばと思い、コンビニのアルバイトを始めました。新しくできる店ということもあり、週2日、1日3時間の勤務から始めました。
 
 余談ですが、初めてバイトをするとき、個人的にはオープニングスタッフがオススメだと思います。まわりも初バイトという人がいるし、人間関係がすでにできあがっている輪の中に単身乗り込むわけではないので、気楽に始められますから。



――バイトを始めて、家族との関係に変化はあったのでしょうか?
 太宰治の本って、どれを読んでも大した感想を持てないんだけど、『人間失格』の「恥の多い人生でした」という一節だけは当時、すごく共感できました。
 
 というのも、家族のなかで一番年下、かわいい存在としてふるまわなければいけないことに、疑問を感じるようになっていたからです。
 
 苦しい時期もすぎて「一人の人間として自立したい」と考えているのに、「無理して働かなくていい」とか「ずっと家に居ていい」という親の優しさに、若干の居心地の悪さを感じるようになりました。「どんな状態でも、お前はうちの子だ」という言葉に救われた時期はたしかにあったけど、もうそういう時期じゃない、と。生意気に映るかもしれませんが「一人前の人間として扱ってほしい」という思いがあったのだと思います。そんなとき、バイト先のコンビニのオーナーから「正社員にならないか」と誘われました。

 4年間地道に働いてきたうえでの評価としてうれしかったのですが、最終的には断ってしまいました。

――ふつうに考えたら、もったいない話では?
 葛藤もありました。「少々待遇が悪くても、学歴のない自分が正社員になれるチャンスなんてそんなに多くはないかも」って。
 
 でも、そういうふうに考え始めると、仕事のことを考えるのがすごく苦しくなりました。「学歴がないと働けない」。今まで意識していなかったそういうネガティブな気持ちに気づいてしまったんです。
 
 「少ないチャンスをモノにしなければ」という動機だけでこれから数十年働き続ける。それは待遇うんぬんの話ではなく、働く姿勢そのものが自分を苦しめることになると直感で感じました。それじゃ自分は幸せになれないだろうって。
 
 10歳で不登校をして以来、私の人生は「学校に行かなかったことをいかに肯定できるか」がテーマだったように思います。私は今でも「不登校は自分にとってプラスだった」と考えています。ならば、自分の不登校体験を軸に据えた仕事をすること、それが自分の気持ちを裏切らずに生きる道なのではないかと思うようになりました。ちょうどそのとき、千葉で「ネモネット」を立ち上げる話があり、その立ち上げに関わりながら、いくつかの不登校に関係のないバイトを掛け持ちしつつ、不登校に関する仕事を選び、働いてきました。

――不登校をして20年、ご自身の「不登校その後」についてどう考えていますか?
 不登校をしたこと自体は悪いことと思っていなくても、「学歴がないと働けない」と考えてしまう不登校経験者って、当時の私だけじゃないと思います。不登校関連の職に就きたいと思う一方、そうした社会状況を変えたいという思いもずっと持っていました。「不登校したら〇〇しか仕事がない」っていうのはおかしいだろうと。不登校関連の仕事を中心にして食べていけるようになってからは、自分が楽になりたいというより、世の中を変えたいという思いのほうが強くなりました。
 
 その後は、「ネモネット」やフリースクール「東京シューレ」のスタッフを経て、現在は「フリースクール全国ネットワーク」の事務局長をしています。加盟している64のフリースクールの中間支援組織としての難しさもありますが、夢の半分は叶ったかなと。
 
 NPOで働くというのは、給与の面などで、けっして待遇がいいとは言えません。だけど、働く姿勢で自分が苦しむなんてことはありませんし、言いたいことは言い合える職場です。
 
 「世の中を変える」というスタート地点にも立てたと思うので、これからは自分の夢のもう半分を叶えていく。それが自分の生き方であり、不登校にかかわる仕事でお金をもらう私の責任でもあると考えています。

――ありがとうございました。(聞き手・小熊広宣)