絵本「きいろいばけつ」「おとうさんといっしょ」などで知られる絵本作家の土田義晴さん。30年間、家族を描き続けている土田さんは、「家族」「子ども」をどう捉えてるのだろうか。子ども若者編集部がインタビューを行なった。
――どんな家庭環境で育ったのでしょうか?
家族の絵本をよく描いているので、よく聞かれるのですが、ほのぼのとした雰囲気の家族ではありませんでした。
父も母も40歳をすぎてから結婚して僕ら兄弟を産んでいます。父親は戦争の後遺症があったのか、欠落したものがある人でした。死ぬまでふつうに会話をした記憶がないんです。僕の絵本に出てくるようなお父さんではなかったですね。
一方、母親は山形県鶴岡で350年も続いた旅館の長女として産まれました。僕が小学校にあがるまではよくその手伝いに行ってましたが、いろいろと複雑な人間関係があったようです。だからということではありませんが、母も口より先にげんこつがでる人でした。
――絵本作家を志されたのはどんな経緯から?
崇高な志はないですよ、絵は好きでしたが(笑)。
高校に入学したとき、どこかの部活に入らなければいけなかったので、「ラクをできそうな美術部に」って。ほんと安易な発想でしょ。
でも、一年生のときに美術展の賞をもらったの、そこからやる気を出して美大を目指しました。そして無心で絵を描きました。でも大変だったんですよ、絵じゃなくて勉強が(笑)。遊んでばかりで勉強はしてなかったですからね。
恩師との出会いと別れ
そんな感じで必死に遅れを取り戻し美大に入りました。有名な美大じゃなくてちょっとおもしろい大学だけど。でも、それがよかったんです、自由で。絵本作家を目指したのもその大学で中谷貞彦先生と、その奥さんで絵本作家の千代子さんに出会ったからなんです。いまでも僕の肩書には「中谷貞彦・千代子夫妻に師事」と書いてありますが、千代子さんからは絵のことはぜんぜん教えてもらってません。ただ、家に行くといつもお腹を空かせていた僕にご飯を食べさせてくれました。食べながら、いろんな話をしました。食のこと、芸術のこと、出版のこと。そして、「土田くんだったら絵本で食べていける」と言われ、その気になったんです。まあ、ウソでしたけど(笑)。
それで絵本作家になるため出版社への売り込みをくり返し、ようやく絵本の仕事ができ始めてきたころ、千代子さんがガンで亡くなりました。千代子さんはまだ52歳。ショックで僕はまったく絵を描けなくなりました。その後、しばらくはサラリーマンとして働いていました。当時、すでに結婚していたので生活のこともありましたからね。ところが、会社の話ばかりをするようになった僕に奥さんが「ずうっとお札を数えているの?」と言ったんです。それで30歳を前にこの世界へ戻ってきました。
描いて描いて毒を抜いた10代
――昔からいまのような絵のタッチだったんですか?
そんなことはないです。とくに10代のころは「なんでこんなにグロい絵を描くのかねえ」って、よく絵の先生に言われていました。血まみれの沼から手が這い上がってくるような絵ばっかり。だいぶキテた(笑)。
そういう絵を大学生ぐらいまではずっと描いていました。いまからすれば真逆の絵ですが、それまで言葉にできなかった毒を吐き出していたんじゃないかと思うんです。ですから10代の人で、まわりが見てギョッとするような絵を描いている人は描いて描いて吐き出していったほうがいいと思いますよ。
――土田さんはデビュー以来、ずっと家族をテーマに描きつづけていますよね。
僕が描いているのはごくふつうの家族のようすです。いっしょにご飯を食べたり、いっしょに歩いてしゃべったり、そこで発見があったりする。それだけのなんてことないお話なんです。でも、それがいままでの家庭にはなかった、ということじゃないでしょうか。
さきほど両親の話をしましたが、へんてこりんな両親でしたが思い出せばいい思い出はあります。母はいつもその季節のごちそうをつくってくれたし、父は何を言ってるかわからない人でしたが海や山が好きで、桜の時期にはいつも桜を見に連れて行ってくれました。二人とも亡くなりましたが、悪い思い出は消えて、ちゃんと遺していってくれたものがありました。それを自分なりに拡げているんだと思います。
子どもの言うことを聞く
――地元・山形の小学校や幼稚園などによく行かれるそうですが、どんなことをされているのでしょうか?
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