連載「不登校50年証言プロジェクト」
「不登校50年証言プロジェクト」第1弾は、佐藤修策さんにお話をうかがった。佐藤さんは1954年から岡山の児童相談所で判定員の仕事を始められ、59年に登校拒否の研究論文を発表されている。これは京都大学の高木隆郎さん(精神科医)と同時期で、日本で最初期の登校拒否についての論文と言える。その後も、ずっと不登校・登校拒否に関わってこられ、いわば不登校・登校拒否の歴史とともに生きてこられた方だ。
佐藤さんが児童相談所の仕事を始められた当初、学校に行かない子はゴロゴロいたものの、漁村に就学を勧めにまわっても、「学校は小学校まででいい。誰も中学校をつくってくれと言うてない。英語を教えてくれる? 英語で鯛は釣れん。あとはワシが漁師に仕込む」と毅然と断られたという。しかし、その後60年代の高度経済成長期に入ると、第1次産業は衰退し、学校に行くことが重視されるとともに、「学校恐怖症」の問題が持ち上がってくる。そのとき、「母子分離不安」が原因とされたのだった。
なぜ母子分離が
学校恐怖症や登校拒否が家族の問題、とりわけ母子関係の問題にされてきたことは、その後にわたって、ずっと親子を苦しめてきた。
佐藤さんへのインタビューでは、どういう経緯で母子分離不安が言われるようになったのか、それはアメリカの精神医学の影響だったのか、無理な母子分離が何を招いたのかなど、さまざまに聞いている。母子分離不安は、その後、批判的に検証されてきた見方だと言える。
ただ、母子分離不安の背景には、高度経済成長によって産業構造が変化し、多くの男性が会社に自分を捧げて働くようになり、核家族化した家庭のなかに母子が取り残された問題がある。また、進学熱が過熱していくなかで、親の子ども支配が強まり、その支配をやめていくことが、親からの子どもの分離・独立となっていくという見方も、佐藤さんはされていた。
また、「神経症的登校拒否」という概念は、佐藤さんが59年の論文で示されたものだが、これは当時、児童の分裂病(現在の統合失調症)が疑われるなかで、精神病とは異なるものとして、神経症として見立てられたものだったということも、語られている。
佐藤さんは一貫して、登校拒否は、家庭、学校、子どもの三者の関係で捉えるべきだとおっしゃっていた。子ども個人の問題や親の育て方の問題とだけ見るのはまちがいだが、一方で学校の問題のみにしてしまって、家庭の問題や子どもの抱える問題を見過ごしてもいけない。本紙読者には、佐藤さんの見解は、うなずける部分も、ひっかかる部分もあると思うが、ひっかかる部分こそ、ていねいに考える必要があるように思う。
インタビューは、本プロジェクトのサイトにて、無料で全文を読める。ぜひ、ご意見・ご感想をお寄せいただければと思う。(山下耕平)
読者コメント