連載「不登校50年証言プロジェクト」
元東大小児科医で現在は「林試の森クリニック」を開業されている石川憲彦さんにお話をうかがった。石川さんは1946年、神戸市生まれ。終戦1年後に誕生した石川さんの幼少時代は、どん底で不安も大きいが、開放感も同時に存在しているという戦後の時代。近所では、5歳ぐらいの子から中学生までの子どもがいっしょに遊び、学校に関しても牧歌的な解放された感じがあったという。
その後、現在は名門校と言われる灘中学・高校へと進学。このころから学校がイヤと感じ出した。成績の評価で教師の態度が変わり、その苦痛を自分がエリートであるという意識で補うこともあったそうだ。
1965年、東京大学へ進学。大学時代は、教会学校やYMCAで子どもと関わることも多かったが、まだこのころは学校に行ってない子どもは見かけなかったそうである。いまだったら診断名が付けられるような子どもも、そこには集まってきたが、ただただ遊んでいたとのこと。
そして初めて学校に行かない子どもと出会ったのは、74~75年にかけて、研修医として静岡県藤枝市の病院に勤めていた時代。楽しかった学校の思い出もあり、「なんで学校に行かないの?」とまずは驚いた。
いま思えば単純に学校が嫌な子どもがいただけとのことだが、石川さんの持つ学校イメージからすれば、それがなぜなのかが、わからなかったのだという。
さらには、障害児医療に関わるなかで、身体に障害のある子はいじめにあってでも学校に行っているのに、「障害をもたない子が学校に行かないなんて」と感じていたことを「倫理的に洗脳されていた」と表現。
そこから「学校に行く意欲を高めるために、校長は子どもが帰るときに25セントずつおこづかいをあげる」アメリカや、イギリスの植民地時代に持ち込まれた学校に根本的な疑いを持つマルタと比較し、日本は学校に行くことが単純な損得問題ではなく、道徳問題になっていたとふり返った。
「障害児を普通学校へ」という運動と、不登校の子どもに関わるという両方を同時にやってきた意味について、たとえば学校が「怖い」と思う人と「怖くない」と思う人が、ともに存在することで、初めて多様性が生まれるということ、わからなければ集まって話し合う場所があればよいということで始まったのが、さまざまな子どもたち、大人たちが集まる「医療と教育を考える会」のキャンプだった。
インタビューを通して浮かぶのは、(年齢を超えて遊んでいた)「近所」「教会」「YMCA」「キャンプ」といった、学校でも家庭でもない場所と、そこでさまざまな子どもたちが集う姿である。そのなかにこそ、石川さんは学校のあるべき姿を見出しているように感じた。また「障害」や「病気」とは何かといった、社会構造の根本を問う姿勢をぶれずに持ち続けていたことも印象的であった。インタビュー本編は、インターネットにて無料で全文を公開。石川さんの社会観も織り交ぜられた話をぜひお読みいただければと思う。(栗田隆子)
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