不登校新聞

299号(2010.10.1)

いのちとはなにか「最首悟さんに聞く」

2013年12月20日 15:49 by kito-shin
2013年12月20日 15:49 by kito-shin

連載も今号で最終回。最終回のインタビューは最首悟さん。最首さんには、これまでの連載をふり返ってもらいつつ「いのちとはなにか」をテーマにお話をうかがった。

――連載をふり返っての感想をお願いします。
 連載で登場したみなさんにだいたい共通しているのは、人間が「取り仕切れないこと」を指摘しているんだろうと思います。
 
 私は人間が取り仕切れないものは「神」と「仏」と「いのち」だと思うのです。ほかにも細かく言えば「存在」というのも取り仕切れませんが、ここにはいろいろな考え方があります。それから「宇宙」も取り仕切れそうにありませんが、宇宙はいつか取り仕切れるかもしれません。ですから、明確にいつか取り仕切れることを拒否しているのが、神と仏といのちです。
 
 いのちについては、いつかわかるんじゃないかとみなさん思っています。しかし、20世紀までの400年間、自然科学は要素還元的、要素分析的手法をとりながら、輝かしい勝利を得ました。それは「いのちはわからない」という結論に到達せざるを得ないという筋道をつけたということです。21世紀に入って、いよいよ分子生物学が進み、いま「万能細胞」と呼ばれるiPS細胞をつくるというところまで進みましたが、進む分だけいのちはわからなくなっています。

いったいぜんたいどうなってんだ


 なぜわからないのか。それはいのちが「部分と全体の連動と循環」という性質を持っているからだと思うのです。つまり、部分と全体はつながっているんじゃないか、あるいは、部分が先なのか全体が先なのかという循環です。具体的に言うと、DNAとタンパク質、これはどちらが先なのか、ということがわからないんです。タンパク質がなければDNAは構成されませんが、DNA情報がなければタンパク質はつくられません。いま科学の世界では、さかんにどっちが先なのかと議論されていますが、おそらくそれではこの問題は解けないでしょう。いのちは部分部分が全体とつながっていて、それらが連動しながら循環しているのではないでしょうか。
 
 たとえば、私たちは60兆個の細胞からなる秩序体という全体です。しかし、60兆個の細胞の一つひとつもまた一体という秩序体です。さらに言えば、私たち一人ひとりは69億人という人類全体の一体(部分)です。この一体と全体の関係が、いったいぜんたいどうなっているのかわからない(笑)。それなのに必死に立ち入ろうとしているんです。



――「神や仏にも立ち入れない」とは、どういう意味なのでしょうか?
 私たちが想像できるのは一体と全体で表せるものです。そのほかにあるのが完全体です。完全体というのは神と仏でしょう。神には構造がないんです。のっぺらぼう(笑)。神は混沌なんです。それなのに「神さまには耳も口もあります」なんて言ったら神は死んじゃうんです。神は「ある(有)」という完全体でありながら、構造がないから「無」に通じちゃうんです。構造がなければ私たちには想像できません。想像ができなければ、それは「無」とか「空」というものでしょう。
 
 たぶん、いのちもそういうものとして捉えられるんじゃないでしょうか。いのちには、二つのフェーズがあるんです。

 いのちのひとつのフェーズは、形と働きを持った多様に満ちた個体(一体)です。私もいのち、あなたもいのち。それを「分有のいのち」と呼ぶことにしましょう。分有のいのちというのは、いくらちぎってもちぎっても、そこにあるのはいのちという感じ。そして分有のいのちは、ものすごい多様性と関係性に満ちています。
 
 この分有のいのちとはなんなのか。公式にするならば「いのち=形+働き+いのち」です。左辺のいのちとは私という分有のいのちであり、形と働きを持っています。もし人間や生き物に形と働きが奪われれば、それを「死」と呼びます。しかし死んでも(形+働き=0)、いのちが残ります。それが右辺のもう一つのフェーズのいのちです。先ほどの公式に戻れば、いのちというのは「いのち=いのち」になる。この「いのちはいのち」という感覚、いのちはわからないものだという感覚は、みんな活き活きと持ってもっているんじゃないでしょうか。
 
 一方、神と仏については、いろいろと異論が出るでしょう。だから、神や仏が、いのちとどう関わっているかは留保して、みんなで戦争を回避しましょう、と。そういうふうに思っています。いちばん恐ろしいのは宗教戦争だから。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共立には、遠からずその態度が必要だと思うんです。それはそんなにかんたんなことではありませんが……。
 
 エルサレムには、わずか100平方キロ強のなかに三つの聖地があります。そこに三つの聖地があるということが、三すくみで何とかなっている証明であり、同時にたがいを排除したいという緊張感の表れでもあるのです。同じように、9月11日も共立と排除の二つの始まりであろうと思います。そういう意味で、神や仏は留保して、「いのち」を共通の立ち位置にしましょう、と。共通の立ち位置というのは、まず「いのちはわからない」という態度。そして、いのちは取り仕切れず、ぼくらはすべていのちのなかで暮らしている、という認識です。

人間と生物をわけるものは?


――しかしいのちよりも合理性、またはお金が大事な社会になってますが。
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