今年で21歳になる長男がある朝、登校拒否をしたのは10年ほど前。小学校3年生ごろだった。玄関に座り、泣くでもなく、わめくでもなく、たんたんと登校しないことを母親に言ったそうだ。自分自身が少なからず登校拒否の経験があった妻は、その場ですぐに受けいれることができたようだ。

あとからそのことを知らされた自分はどうだったかといえば、まったく状況を理解できず驚くばかりであった。妻から言わせると、首根っこをつかみ、キズつくようなことを言っていたそうだ。都合よくではないがそのへんの記憶が自分にはない。覚えているのは子どもに「学校ぐらい行けなくてどーする! 社会へ出たらもっと大変なんだぞ!」と言っていたことだ。

そのころは自営の仕事がだんだんと思わしくなくなり、生活をなりたたせるため、何百人といるわりと大きな会社に勤め始めて間もないころだった。若い人た ちに頭を下げながら仕事を教わり、自分をなんとか保っていた。自分のことで精一杯で子どもにまで気がまわっていなかったと思う。

子どもの不登校を即断で受け入れた妻に対し、自分は学校へ行かないで家にいるという状況が想像ができず、理解に苦しんでいた。そんな夫から妻は子どもを守ろうと していた。

妻の本棚には「一人で生活する方法」みたいな本が並んでいきはじめ、離婚という文字を頭に浮かべざるをえない始末。「おいおい、俺はまちがった ことをしてないし、まちがったことも言ってないだろう? 俺のどこが悪いんだ!」と妻に言ったのを覚えている。

そう言っている反面、「自分は学校をどう 思っていたのだろう? 学校へ行って何を学び、何を思って進学し大学まで出たのだろう? 自分はどう生きてきたんだろう?」という疑問がわいてきた。大学は芸術系に進学したかったのに、法学部に進んだ。当時はオイルショックで就職難の時代。家庭も裕福ではなかったため就職率のいい学部を選んだからだ。でも、なんのことはない、いまの仕事は印刷や出版関係のレイアウトデザインやイラストを描くと いった仕事で、法学とは直接関係ない。卒業してからいくつか仕事も変わったけど、いままで何をしていたんだ?

そこから自分を見つめ直すことが始まった。

子どもに「学校に行けとは言えないな」と思い始めたころ、5歳下の長女も幼稚園に行かなくなった。心の準備はできていた。



それからは子どもと向き合う毎日。博物館やキャンプに行ったり、仕事で遅くなっても子どもと夜中の散歩をしたりした。散歩は真冬の夜中でも、会社の付き合いで飲んで酔って帰ってきても続けた。でも学校に関しての話はぜんぜんしなかった。宇宙の話、動物や恐竜の話とかをしていたと思う。散歩道の小川の源流を 探しにいったこともあった。

不登校に関しての話は一度だけ。まだ学校へ行けない自分を責めていた子どもに「おまえの選択はまちがってないし、まちがったこ ともしていない」とだけは伝えたのを覚えている。妻ともいろいろ話すなかで、生きいてくれるだけで何でもありなんだから腹をくくろう! と共通の価値観もつくることができはじめた。

さらに子どもが東京シューレの会員となってからはイベントやプログラムに係わることで、スタッフやほかの親 の方々とつながり会うことができ、いろいろな気づきをもらった。とくにほかの子どもたちと知り合い、話すことから「子どもは親が思っている以上に親のこと を考えているし、見ているんだ」ということを知ったのは大きな気づきであった。

ほかの子どもを通して自分の子どものことも知ることにもなったのだ。多様な生き方をしている子どもたちを見ていて、自分の固定観念や価値観を解体し、そこからまた築き上げる作業をすることになった。要は自分のなかにも眠っていた と思われる多様な生き方や考え方が目覚めてきたのだろうと思う。不登校が自分を立ちどまらせ、考えるチャンスをくれたわけだ。

そして血がつながっている親子であるのはまちがいないが、「もういちど親子になりたい」というチャンスもくれたと思っている。

成人した長男が「あの夜中の散歩は楽しかったね~」と言ってくれたのは自分の勲章である。(三田剛 東京都)