なんでだろう お風呂がめんどうくさい
最近、印象に残った一節がある。「おまえはいま、締切を一週間以上すぎた原稿を4本抱えていて、2日寝ておらず、5日お風呂に入っていない」(穂村弘『本当はちがうんだ日記』)
この文の作者・穂村弘氏は日本有数の歌人にして、エッセイなども有名。ご存知の方も多いと思う。それでも、ときとしてお風呂はそんな存在をも脅かす。なんのことはない、お風呂がめんどくさいって話です。
それにしても、世の人々はどうしてそんなにお風呂に入りたがるのだろう? 入ることが一種の義務と思ってもあながちまちがいでないように思える。今日を清算し、明日へ向かうこと。プライベートな肉体を学校や会社から取り戻すこと。そんな風に考えてみたりもする。
私の経験から言わせてもらうと、ひきこもるとき、長いあいだ外に出ないときには、自分の体が一種の"もや”のようなものに包まれている感覚がある。あれは、自分の体、その延長としての垢に包まれる安心感なのではないかな。胎内回帰願望ともどこかしら通じる。そして、お風呂はそれを駆逐する。そういった奇妙なもやをさっぱり除去して「さあ、世界よ、私は無害だ、私に触れてみなさい」と、準備をととのえて床に就く。お風呂ぎらいの人にとっては、たいへん気力を要する行為だ。
なぜお風呂はある種の人々にとって、こんなにもめんどうくさいのだろうか。それは、お風呂が基本的に「明日、社会に参加するのに備える」ためのものだからだろう。そうやって垢をとりのぞいた状態をこそ、社会は「適切なもの」として受けいれる。明日がきつい、明日のことなんか考えたくないときには、お風呂なんて入らなくてすめばうれしい、つまりは「めんどくさい」のだ。
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