今回は前回に引き続き高草木光一さんのインタビューを掲載する。

発展なき豊かな社会


――「与死」の理念に対する対案はあるのでしょうか?
 私が編集した『連続講義「いのち」から現代世界を考える』(岩波書店/2009年)で、ウイグル(中国西北部に住む民族)医学について論じていただいたマリア・サキム氏が、あるセミナーで「ウイグルでは、若くして死んだ人を『神さまから愛された人』と言います。神さまがいとおしくて早く自分のもとに引き取ったのだと考えます」と発言をされたのがずっと心に残っています。その「神さま」が土着の神なのか、イスラムの神なのかわかりませんが、ともかく、そのように考える社会はストレスの少ない社会でしょう。どんなに医学が進歩しても、人間が死を免れることはありません。救命はつねに暫定的なものでしかないのですから、ガンの手術によって10年間延命したとしても、相対的なちがいしかないとも言えます。しかし、それをそのまま高度な医療技術を有する日本社会に適用したら、特定の人だけが高度医療を受けられる差別的な制度の構築につながってしまいかねません。ここは慎重に考えたいところです。

権利の平等 義務の不平等


 社会システムとして私が再検討に値すると思っているのは、社会主義や共産主義の考え方です。モノの所有に関する思想を「いのち」に関する思想として読み替えられないか、ということを考えています。

 たとえば、フランス革命の展開過程のなかで1796年バブーフの陰謀が発覚します。共産主義社会を目指す革命を企てた陰謀です。そのバブーフ派の公表されなかった「平等派の宣言」という文章があります。そのなかに「実質的な平等が残りさえすれば、いっさいの工業も滅びるがいい」という激烈な文言があります。バブーフ派の内部でさえ過激すぎると判断されたものです。


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