『脱ひきこもり』から3年(下)
(前号からのつづき) でも、それよりもっとつらいことがある。それは、「あちら側」に行けなかったことだ。ひきこもりから脱したときには、何もかも終わっていた。卒論、入社式、たいへんな仕事、同僚との愚痴、初任給での買い物、達成感、ボーナス……。老後のことを考えたり、マンションのローンで悩んだり。スーツを着て行き交う人々を見ていると、もう一生「あちら側」には行けないのかと思う。僕は定時制高校に通っていたのだけど、制服を着ている同年代を見て、もう「あちら側」には絶対行けないんだな……と思ったときの悲しさ、孤独、惨めさを思い出す。
僕の人生は何度も何度もこれをくり返す。子どものころ、みんながファミコンを買ってもらっているときに、「教育に悪い」という理由で買わせてもらえなかった。そのせいで友だちとゲームの話しができず、周囲との断絶感を味わった。何度も何度も。惨めな疎外との闘い。これを書いている今も一人だ。ひきこもりを脱しても、こればかりはどうしようもない……。
そしていまだに、人といっしょに居てもどこか間が持たないと感じている。会話で間を埋めようとする。そうでないと相手を退屈させてしまうし、相手とのつながりが実感できなくて不安になる。自分ごときが何もしないでそのままで居ていいはずがないという思い込みがまだ取れない。ただ何もしない、あるがままでこの世に受け入れられているという実感がずっとなかったからだ。僕が出会ってきた心が病んでいる人たちも、みなあるがままで生きられていなかった。
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