「いのちとはなにか」第3回目も、社会学者・立岩真也さんのインタビュー。連載中の立岩さんへのインタビューはこれで最後。

――胎児の異常を判定して中絶する「出生前診断・選択的中絶」についても、著書で指摘されていますが
 出生前診断・選択的中絶が議論になったのは1970年代以降のことです。具体的には、障害者運動の側から、出生前診断は優生思想にもとづくものであり、障害者の抹殺につながるという批判が起きました。女性運動からも出生前診断が優生思想にもとづくものだとして批判が起きる一方、出産に関する権利、親の「産む・産まないの自由の保障」が主張されました。双方のあいだで議論もありました。この主題については『私的所有論』(勁草書房)で考えてみました。こちらのHP(「生存学」のHP、http://www.arsvi.com)にもいろいろと資料など掲載されています。

他人じゃない だから、うれしい


 非常にシリアスな問題や選択を含む問題なのですが、私の考えを一言で言えば、出生前診断はよいことではない、と。何がいけないかと言えば、どういう人間が生まれてくるかを他人が決めているからです。どういう人間が世の中にいてよいかを決めることは、究極的には自分たちの都合や好みによるところだからです。実際には自分たちの都合や好みで、他人のことをいろいろと制約していますし、コントロールしたいという欲望も否定できません。だけど、人のありようを人が決めること、それは基本的にダメで、なるべくしないほうがいいことなんだ、と。

 他人とはどんな存在であるのかと言えば、それは、自分が決められない人、決められても決めない人、決めたくても決めてならない人のことである、と思います。自分がその人のなにもかもをコントロールできたら、それは他人ではなく自分です。私たちは、他人をコントロールしたいという欲望を持ちつつ、他人が自分じゃないから、うれしくも思えるんじゃないでしょうか。もし、自分だけ、私だけがこの世界に存在していたら、それはすごく退屈なことです。

 こういう考えからもう一歩踏み込んでみると、自分のことを自分で考える、自分で決めるというのも、大切なことですが、ときには退屈なことでもあるんだと言えます。

いのちのことはわかりません


――最後に「いのちとはなにか」という質問をさせてください。
 去年、慶応大学で最首悟さんと講義をしました(『連続講義「いのち」から現代世界を考える』岩波書店)。そこで最初に話したのが「いのちのことはわかりません、おわり」と。今回もそういうことです。

 「○○とはなにか?」という問いは、よくわからないことがあるんです。その問いに意味がある場合、ない場合、何を問うているのかわからない場合、答えてもしかたがない場合、答えないほうがいい場合、いろいろな場合があります。

 すくなくても、私には生きているということがどういうことなのか、よくわかりませんし、わからなくてよいようにも思います。そして、いのちとはなにか、その問いに答えようとする欲望が私には足りません。また、いのちとはなにかという問いに、答えがなくてもよく、一つじゃなくていいとも思っています。べつにいのちの大切さやすばらしさなどをいっしょうけんめい言わねばならないとも思いません。死ぬより生きているほうがいいだろう、というぐらいのことです。だけど、もっともらしいことを言って、他人に「死んだほうがいい」などと言っている人たちには、「それはちがう」と言ってきました。それを説明するのは私の仕事です。

――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)