昨年11月4日、秋葉原UDXにて行なわれた「朝日新聞&不登校新聞がつくる『不登校セミナー』」(主催・朝日新聞広告局)。そのなかで行なわれた不登校経験者によるシンポジウムを掲載する。聞き手は本紙編集長・石井志昂。

下村功さんの話


――まずは自己紹介からお願いします。
 いま私は立教大学の大学院に通いながら児童福祉について勉強しています。4月からは社会福祉法人で働く予定です。また、自分の不登校経験を活かして、不登校・ひきこもりの人を支援する「ネモ千葉ひきこもりネットワーク」の運営にも関わっています。

――不登校になった経緯を教えてください。
 不登校になったのは小学校2年生からです。いじめがあったわけでも、トラブルがあったわけでもありません。ただ、毎日の授業や宿題に「いったいなんの意味があるんだろう」とずっと疑問を感じ、苦痛でした。そのガマンが半年ほど続き、1年生の夏休み明けからは体調を崩し始めるようになり、2年生からは完全に不登校です。

――親はどんな反応をしていましたか?
 「行きたくない」と言ったその日から、母親は混乱し、突然、泣いて家を飛び出していったこともあります。そういう母を見て「自分が悲しませている」と自己否定感で押しつぶされそうでした。これは後から聞いた話ですが、ある日、学校の先生からの電話で私は「学校に行く」と意志を示したんですが、その場で泣き潰れてしまったそうなんです。私自身はまったく覚えていません。ただ学校の先生からの電話や家庭訪問がとても怖く、逃げ道がなくなっていく感覚はよく覚えています。もうこのころになると、学校に行けないことは、自分を責める動機にしかなっていませんでした。

――なぜ学校に行きたくないのに「学校に行く」と言ったんだと思いますか?
 学校に行かなきゃいけない世の中だから「学校に行くんだ」と言ってたんです。学校に行かない道もあることを示されて聞かれたわけじゃないですから。

 自分の基盤 こもってたときに


――親としては、家のなかで一日中ゲームやマンガをしている姿を見て「苦しんでいるように見えない」と思うのですが。
 僕も一日中、ゲームやマンガをくり返してました。中学生、高校年齢ぐらいまではずっと家でひきこもっていました。ただ、この時期が一番成長できた時期だと思っています。いまの自分があるのは、当時、葛藤してもがいていたときにつくられた地盤があるからだと思っています。

――そういう苦しい時期、親の対応でよかったと思えることはありましたか?
 ある日、僕は悩むことにも疲れはててしまったことがありました。ゲームをしようが、マンガを読もうが、いつも同じ思いが頭をよぎってくるんです。「自分には何もできない」「きっとこの社会で生きていけない」「生きていちゃいけない」「なんでこんなことになってしまったのか」……、ずーっと堂々巡り。「生きていたい」と「自分が生きていい理由が見つからない」という二つの気持ちに揺れ、揺れることにすら疲れてしまったんです。それで、こう母に言いました。「もう死にたい、本当なんだ」と。
 
 母は何も言わずにうなづいて泣いてくれました。このとき初めて「伝わった」と。それまで何度も母には相談してきましたがいつも気持ちが伝わらないと思っていたんです。でも、このとき初めて表面上ではなく心から母は私の心の痛みに共感してくれたんだと思います。母の痛みも伝わってきました。すごく気持ちが楽になったのを覚えています。やっと一人で背負っていたものを誰かといっしょに背負ってもらえた、と。
 
 その後、家を出るようになりました。人からはアルバイトや進学のきっかけを聞かれますが、こうした家族とのやり取りがあったからだと思っています。

――下村さんは小学校から不登校ですが、学力面で苦労されたことは?
 大検取得(現・高校卒業程度認定試験)をする際は、一から勉強を始めましたが、1カ月程度の準備で十分でした。ちゃんと教わったのは数学のみです。おそらくいまなら英語も必要でしょう。気持ちに余裕さえあれば、自然と取得はできると思います。大学進学はそれ以上の学力を求められますが、やはり自分が納得して始めたというのが大きかったと思います。なんの苦もありませんでした。

――大学進学に不安は感じませんでしたか?
 大学に行ったのが20代半ばですから、不登校だったことも忘れてました(笑)。

――親の対応で「こんな関わり方を」というアドバイスはありますか?
 やはり学校に行くことが当たり前の社会のなかで、不登校になると、誰も味方がいないと本人は感じます。親の方は今後のことが心配だと思いますが、本人にとっては、いま苦しんでいるこの瞬間に、わたしの味方になってくれるかどうか。そこが、信頼して相談したい相手なのかどうかの大きな分かれ道だと思っています。(了)
 

子どもに誇れる仕事に就きたい 


シーザー・ダニエルさん(消防官・不登校経験者)

――自己紹介からお願いします。
 みなさん、初めまして。まずは、みなさんがおそらく疑問に思っていることからお答えします。私は父親がアメリカ人のハーフです。名前はシーザー・ダニエルですが、生まれも育ちも埼玉。英語がしゃべれない日本人です(笑)。私も小学校2年生から不登校をし、フリースクール「りんごの木」に通い、大学進学を経て現在は消防官として働いています。

――なぜ不登校をされたのでしょうか?
 私が不登校をしたのは、現在でも友人の増田くんが不登校だったからです。増田くんと遊びたいので不登校しました(笑)。というのも、私には4歳年上の兄がいて、すでに不登校でした。兄のときは両親もとても悩んだそうです。通学路でまったく動かなくなった兄を両親が押しながら校門にまで連れて行ったこともあったそうです。そういうなかで両親は「こんなことまでして、学校に通わせる意味はなんなのか」と思ったそうです。
 そうしたことがあったあとですから、私が「学校に行かない」と言っても、母は「いいよ」と。

――周囲からの影響を受けて「行かなければ」とは思いませんでしたか?
 不思議となかったですね。たまに遊びにいく学校の友人たちから「お前はいいなあ」と言われることもありましたし、道行くおじいちゃんに「子どもは勉強するのが仕事なんだから」と諭されることもありましたが、まったく気にはならなかったです。
 

野球をしたくて通信制高校へ

 
――その後、通信制高校に通われていますが、なぜ学校にこだわらなくていいと言われながら学校へ?
 僕の場合、通信制高校は学ぶ場としては捉えてなかったからだと思います。僕にとって通信制高校は野球をする場(笑)。
 
 当時、僕のまわりではとても野球が流行っていて、毎日のように野球をしてました。ところが、どこのフリースクールも、なかなか本気で野球をやるための環境はありません。そう思っていたところに、友人から「通信制高校で野球をやらないか」と。それで通うようになりました。

――たしかに学校ってそんなもんですよね。ところで学力面での苦労は?
 とくにありませんでした。まず、高校入試は面接だけですから準備することはとくになかったです。レポートも週に何通か出しますが、それはもう野球のための業務ですから(笑)。ちなみに野球はいいチームだったので全国大会にまで進みました(笑)。

――おめでとうございます。さて、その後の進路は?
 推薦で大学に進学したので、入学はとくに苦労はせず、入学後もとくだん大きな問題もありませんでした。大学卒業を控えたとき、いま務めている「消防官」をやりたいと思い立ちました。人の役に立ちたいと思ったんです。のちに子どもができたとき「お父さんは消防官なんだ」と言えたら誇れるだろう、と。そして、もし人の命を救うことが一度でもできれば、どんなに充実感が得られるだろう、と。

――しかし、消防士になるのは不安じゃありませんでしたか?
 僕もいろんな不安がありました。とくに公務員試験は浪人も覚悟しましたが、やってみたら受かったのでよかったです。それと消防署は「体育会系のノリなのでは? 」と言われることもありますが、一部の人はたしかに体育会系の部分もありますが、多くの人はふつうです(笑)。

――親の対応で「よかった」と思うことはありますか?
 すごく自由にしてくれたことです。学校に行こうが、行くまいが僕自身をいつも応援してくれ、僕がやっていることをいっしょに楽しんでくれました。それがありがたかったです。

――不登校をふりかえってどう思われますか?
 不登校をしたことのデメリットを僕はほとんど感じていません。でも、学校に行っていたらどうだったのかと考えることもあります。よかったかもしれないし、悪かったかもしれない。でも、それは誰にもわからないことです。
 ふり返ってみれば、いまは仲間に恵まれ、就きたい職業に就くことができ、僕にとって不登校はよかったことだと思っています。(了)