(よしもと・たかあき)1924年、東京都生まれ。詩人、思想家、文芸評論家。日本の戦後思想に大きな影響を与えた思想家として、60年代より現在に至るまで、さまざまな状況に対して思索、発言を続けている。作家・吉本ばななの父親でもある。著書に『親鸞』(春秋社)、『少年』(徳間書店)など多数。
敗戦は、むなしくなるぐらい影響があった
――自分自身の考えを持つきっかけは?
僕が大学1年生のとき、日本が敗戦しました。敗戦したとたん、就職口はなくなるし、学校自体も続くかどうかもわからない。社会ががらりと変わってしまった。それまで、働くための知識は学校で学んでいたし、人間の心の動き、精神の動きについては、文学を読んで考えてきていて、それだけで結構だと思っていた。ところが、そうはいかなかった。急に、どうやって生活したらいいのか、どうやって生きていけばいいのか、わからなくなってしまいました。今までやっていたことが通じなくなってしまったわけです。バカバカしいというか、とてもむなしかった。
社会が変わるってことは、本当に、むなしくなるぐらい影響がある。敗戦までは、僕は社会についてなんて、まるで考えないできた。でも、それが大欠陥だったと思いました。それが、経済学とか経済現象といった、社会を動かしている基本にあるものを少し勉強しはじめた理由です。だから、正しいか、まちがっているかは別として、そのときどきに、社会に対して自分なりのビジョン、自分なりの判断をちゃんと持っていないとダメだぜ、ということは、敗戦以降、今にいたるまで、変わらずに頭に置いていることです。
――物書きになったのは?
僕はもともと文学の出身ではなくて、工科系の学校を出て、技術者として勤めていたんです。そのあと、特許の事務所に1日おきに勤め、そのかたわらで、エッセイなどを書く仕事を引き受けていました。ところが、だんだん、書くことの収入と特許のアルバイト収入が半々ぐらいになってきた。それで、物書きになろうか、特許事務所で働こうか迷った。本当は現場で働きたかったんだけど、特許の事務所ってのは書類を整理したり、事務的なことが多くて、技術者としての現場ではない。どうせ現場で働けないのなら、書くことで食おうと思いました。その時期が40歳前後のころだったと思います。だから、僕はいろんな社会現象に発言しているけど、ぜんぶ素人なんですよ。素人として、社会的な現象に対して、これをどう見たらいちばんいいのか、と考え、発言してきたのだけど、それでいいんだと思いますね。
――専門家でないと物を書けないように思われがちですが?
学問者や研究者と、僕みたいな物書きとどうちがうかというと、前者は頭と文献や書物があれば研究ができる。物書きは手を動かさないと作品が書けない。僕も手で考えてきた。頭だけで書いたらつまらないものしか出ない。考えたことでも、感じたことでも手を動かして書いていると、自分でもアッと思うことが出てくる。それは手でもって書いてないと出てこない。年食ってくると、いちいち、しんねりしんねりしながら手を動かすのが、おっくうになる。それは研究者も同じ。本を読んで、いちいち必要なところだけメモを取るなんて辛気くさいことやってるより、どっかの会長になるほうが楽だよね。しかし、手で考えるってことをやめたら、物書きは一巻の終わりですね。これはあらゆる芸術でも言えることだよね。手を動かすっていう本筋は変わらない。
だから、もし文学者になりたければ、10年間、手を動かすことだと思います。10年間やれば、一人前になりますね。秘訣も何もない。才能があるとか、ないとか言うのは、そのあとの話ですよ。文学の場合、「気が向いたときに書いて、気が向かないときには書かない」というのがいいことみたいに言われるけど、それはウソだよ。気が向こうが向くまいが、何はともあれ書く、手を動かす。そうしたら、一人前になりますね。
子どもは直感的に社会の変化を感じている
――いま、子育てを悩んでいる方が多いと思いますが
妊娠してから子どもが1歳になるぐらいまでは、戦場のようだと思うけど、本気になって、目をそらさないで、赤ん坊と向き合ってくださいとしか言えないですね。
あとは多少乱暴な扱いでも大丈夫。むしろ、過剰にかまい過ぎたり、押しつけたりすれば、子どもはゆがんで反発するから、そういうことをしないように気をつけたほうがいい。大人は現在の社会が昔のままの延長だと思っている。しかし、実際の社会は混乱しているから、ズレがあり、大人自身もいらだちを無意識に感じていると思う。逆に子どものほうは直感的に社会が変わっていると感じているから、親子ですごい距離感が生まれる。大人はその距離感を自覚しながら、子どもとつき合っていかないとダメですよね。
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