今回は「登校拒否を考える会25周年のつどい」(主催・登校拒否を考える会)の基調講演「親の会25年に思う」、講師・渡辺位さんの講演抄録を掲載する。なお、この基調講演は「登校拒否を考える会通信」T部200円)で全文掲載する予定。注文などの問い合わせは℡03・5993・3135まで。
25年をふり返って思うのは、まず不登校問題はある意味で社会に位置づけられたのかなということです。全国でさまざまな親の会が開かれ、登校拒否・不登校を知らない方が、あまりいらっしゃらなくなりました。もちろん、登校拒否が持つ深い意義や問題性についての理解は、まだまだ不充分なところはあります。
それに、当事者の不安は25年前より、深刻になっている気がします。この問題を考えるとき、たとえば昨年6月の秋葉原事件なども、大局的には人間観、社会観から相通じるものがあるのではと思います。ようするに、不登校は「学校に行く・行かない」という現象面のみの問題ではなく、不登校は近代文明と生物との狭間で生じる問題なんだ、という視点が必要だということです。
19世紀ごろからの近代文明の発展はめざましく、とくにこの100年間で世界は劇的な変化をとげ、人口は4倍、穀物消費量は7倍、エネルギー消費量は15倍に増えたと言われています。その反面、自然破壊や温暖化などの問題が見えてきました。そこでこの「近代文明 対 命の営み」という側面から不登校問題も見ることができるのではないか、と思うわけです。
そうは言っても、お母さんたちにしてみれば、目前の状況が気になるわけです。子どもが学校に行かないと不安だと思います。その不安は、子どものありようが「非日常化」していると捉えているからでしょう。しかし、「非日常化すなわち異常」ということではないんです。たとえば、電車やバス、水道や電気が止まったら、たいへんな非日常の世界です。
ただ、よく考えてみれば電車や水道が止まろうとも、人間自体にはなんの異常も起きていません。しかし、電気や水道がストップしてしまえば不安になり、なんとか「日常」に戻らないかと慌てるでしょう。これは、私たちがつくった仕組み、文明のなかに飲み込まれていることが「日常化」して、人間本来の状態だけでいることが「非日常」になってしまっているからです。
読者コメント