「生きること、学ぶこと」について考える際、キーワードになるのが「命」だと私は考えています。いまの日本は命を「モノ」「カネ」に委ねすぎており、粗末に扱っているとさえ感じます。しかし、そうじゃないだろうと。まず命があって、それを大切にするために「モノ」が創造され「カネ」が使われる。これが生き物の生存権における順当な流れだと思います。
1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生しました。マスメディアは、いっせいに「ライフライン途絶により神戸市が孤立している」と報じました。ライフラインとは、電気・水道・ガス。これが止まったならば、私たちは生きてはいけない。私たちがいかに「モノ」「カネ」に依存した社会を生きてるかという皮肉な一例だと思います。
震災後、被災地を数回訪問しました。神戸市の中小企業家同友会の方々は復興のなかで「だちづくり」という言葉を合言葉にしていました。「だち」とは「友だち」、つまり仲間づくりということ。最後の最後は電気・ガス・水道ではなく、命と命のつながりが大事だということです。3・11でも、「絆」という言葉が多用されました。なかには「もう聞き飽きた」なんていう人もいますが、私はそこから出発しないと何も始まらないと考えています。
◎学びとは、命そのもの
詩人・谷川俊太郎さんの詩にこんな一節があります。「あかんぼは歯のない口でなめる やわらかいちいさな手でさわる なめることさわることのうちに すでに学びがひそんでいて あかんぼは嬉しそうに笑っている」。
生まれてすぐの赤ん坊が母をなめたり触ったりすること、それ自体がすでに「学び」であり、息を引き取るその瞬間まで何がしかの意味で学んでいるということです。要するに、学びとは人間の一生涯。つまり、命そのものと一致していると考えていいのではないでしょうか。
さきほど、「生きること、学ぶこと」のキーワードは命だとお話しました。命には3つの特徴があると私は考えています。「ちがうこと」「かわること」「かかわること」です。それをみなで分かち合わないかぎり、心と心、また人と人がつながることは非常に難しいのです。
「ちがうこと」について、「ちがっていい」という言い方がしばしばされます。これは一方で「ちがっているのは悪いこと」という認識があるから生まれてくるのです。ところが、生き物はみなDNAという個別のユニークな設計図を持っています。つまり「ちがっていい」のではなく断固として「ちがう」のであり、良い悪いという次元の話ではないのです。
「ちがい」がもたらすもの、それは他者との断絶です。生き物の身体はみな、皮膚や羽毛で覆われており、ほかの生命個体とは絶望的に切り離されています。夫婦であってもわが子であっても、痛みや苦しみは相手には通じない。それゆえ、生き物は「自己中心」になりがちです。私はこの3月で95歳になりますが、もしこの会場が火事になったとなれば、みなさんは私をほったらかして一目散に逃げるでしょう(笑)。しかし、それでいい。それこそが自然の摂理です。
ところが、私たちはその「自己中心」の軸のみでは生きていけません。太陽の光を浴び、空気を吸い、ほかの命を食べている。他者に依存しなければ生きていけないのです。つまり、生き物はみな、「自己中心」という内向きの軸と「他者依存」という外向きの軸、この相反する軸を生まれながらにして備えているのです。問題となるのが、それをどう調節するかということ。「不安」とは、両者がせめぎ合うなかで生まれるものですから、不安を抱くということは生き物にとって非常に根源的で、かつそれなくして生きることはできないのです。
では、その不安をどう解消するのか。そのヒントをわかりやすい言葉で言い換
えれば、「新陳代謝」でしょう。たとえば、食欲は自分の内側にあるものですが、食べ物は外側にあります。食欲と食べ物がつながる過程が食生活であり、そのつなぎ役となるのが新陳代謝などの代謝活動です。
代謝活動を論じるうえで忘れてならないのが脳です。脳は何を食べて生きているのかと言えば「情報」です。しかし、情報は重さも容積もない、じつにつかみどころのない存在です。目に見えないため「モノ」とも言いづらいし、「エネルギー」とも表しにくい。
そこで私が立てたのが「脳の代謝活動のことを『情報代謝』と名づけてはどうか」という仮説です。脳に入った情報のなかで必要なものは栄養分として記憶に残り、不要なものは排泄するために忘れてしまう。何を言いたいかというと、脳のなかで起きている情報にまつわる一連の代謝サイクル、その過程および結果こそが「学習」だということです。そう考えると、学習とは生き物にとって生存権の一部であると言えるのでないか、と思うのです。
◎学習と教育、何がちがう
では、学習と教育、このちがいは何か。学習はすべての生き物が生まれながらにして取り組む情報代謝であるのに対し、教育というのはごくかぎられた動物がやっている行為にすぎないということです。
その最たるものが人間でしょう。生き物の生涯イコール学習と捉える場合、30億年におよぶ生命の歴史とともに存在したわけです。一方、いま問題となっている教育というのは非常にかぎられたなかでの話にすぎません。
◎近代化の副産物 "学校信仰”
では、教育が本来果たすべき役割と何か。それは「助ける」ということです。学習に適した環境を整備し、新しい情報を提供すること。このように学習を助けるのが教育の本来の役目なのです。
しかし、残念ながらわが国の「学校信仰」は根強く残っています。これは西洋文化に追い付け追い越せと躍起になった近代化の副産物です。日本が手本にしたイギリスでは、エンジニアは職場を転々とするなかで育っていくものです。
一方、日本は西洋文化を合理的に身につけるために学校をつくり、そのなかでエンジニアを育てようとしたわけです。
結果、学校はたんなる「人材養成分別機構」になってしまいました。学校が何をしているかというと、情報代謝の程度を学力として点数化し、それをもとに序列化しているわけです。その分別作業にうまく同化した人間を「優等生」、そうでない人間を「劣等生」と振り分けているにすぎません。
ここがそもそものまちがいです。情報代謝はそのサイクル自体が学習なわけですから、一部分だけをくりぬいて点数化したところで、なんの意味もありません。「学校信仰」はこうした本末転倒の上に成り立っているのです。遅れた近代化を取り戻すためにでっち上げられた偽物の教育に右往左往するのは、もういい加減にしたほうがいいと思います。
みな「ちがう」人間であり、各々が自ら「かわる」力を有し、日々「かかわる」なかで、命と命が響き合う。これこそ、本当の教育ではないでしょうか。学習の本質と教育の理想とは、命の特徴に響き合ってこそ、と私は思います。教育のあり方を根底から問い直すとき、こうした観点から見直すことが大切だと私は思います。
教育が最初にあるのではありません。まず、学習ありきなんです。最近の政治家は「国益に沿うような人間をつくる」なんていうことを言います。「人づくり」なんて言葉もありますが、人はつくれません。IPS細胞にしても、人類はまだ細胞ひとつさえ無からつくれないんですから。
"学校”とは、胎盤の一部
くり返しになりますが、生き物はみな、生まれてから死ぬまで、学習を続けるのです。人間も母親の胎盤を出た後は、人や自然などの「社会的文化的胎盤」のなかでさまざまな学びを重
ねていきます。学校というのは、その「社会的文化的胎盤」のごく一部にすぎないのです。一人の人間、一冊の本との出会いといった学びによって、人間は大きく変わっていくものです。
ですから、教育のあり方一つとっても、さまざまなあり方が探求されるべきです。また、子どもの成長と発達のためには、さまざまな出会いや体験が保障されるべきです。
命が大事にされる社会というのは、人と人が、やわらかくも粘り強い絆で結ばれた弾力性に富む土壌にこそ成立します。そうした社会が「モノ」「カネ」支配の現代社会に代わって登場すること、これこそが私の夢であります。
(講演抄録)
■大田堯さん 主演ドキュメンタリー映画
日 時 2013年5月19日(日)
午前10時、午前12時半、午後2時半
午前11時半~、大田堯さんトーク有
会 場 はぴすしらおか(埼玉)
参加費 1000円
連絡先 048-764-2981(小川)
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日 時 2013年5月18日(土)
午後2時、午後7時
会 場 喜多方プラザ文化センター(福島)
参加費 500円
連絡先 090-7529-5765(熊谷)
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日 時 2013年6月7日(金)
午後5時45分
会 場 静岡市清水文化会館(静岡)
参加費 500円
連絡先 054-271-6475(西村)
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