不登校新聞

391号 (2014.8.1)

不登校その後 祖母の言葉が救いに

2014年07月30日 17:00 by kito-shin
2014年07月30日 17:00 by kito-shin

シンポジウムのようす。写真右から、宗東博文さん、池本恭子さん、司会の本誌編集長の石井志昂。

 6月28日に本紙主催の講演会を山口県で行なった。今回は同県在住の当事者2名のインタビューを掲載する。インタビュー1人目は宗東博文さん(38歳)。不登校してつらかったこと、親になってみてわかったことなどをお話いただいた。聞き手は本紙編集長の石井志昂。

――不登校してからこれまでの経歴を教えてください。
 15歳ごろまでは無遅刻無欠席の優等生でした。でもそれは無理してがんばっていただけだったので、精神的な症状がいろいろ出てしまったんです。なので病院に通い、カウンセリングを受けながら学校に行っていました。
 
 ある日、おなかがすごく痛くなって1日休んだんです。それから少しずつ学校を休みはじめました。中3からは学校にほとんど行かなくなりました。
 
 その後、定時制高校に行ったのですが、同世代のみんなと同じような青春を味わいたくて、1年後に全日制高校に入りなおしました。その後、看護学校に入り、今は障がい児施設の看護師をしています。また小4の男の子と4歳の女の子の父親です。

――不登校をして一番きつかったころはいつですか?
 不登校した直後ですね。母は教育ママだったし、父はスパルタだったので、2人ともたいへん怒りました。毎朝、父親に殴られ蹴られ、母親に布団タタキでたたかれ「早く行け!」と言われました。その時期が一番つらかったですね。

――そんなつらい時期をどう乗り切ったんですか?
 はじめは親もガンガン学校に行かせようとしていたんですけど、時間がたつとあきらめてきたんですね。母親も親の会などに行き、少しずつ考え方が変わっていきました。また、一番支えられたのはおばあちゃんの言葉ですね。朝、親からの殴る蹴るが去った後に寝ていると、昼ごろにおばあちゃんが自分の枕元に来て、ため息をついて、そのあと「せんないことじゃのお、生きちょりさえすりゃ、なんとかなるからの」と毎日言ってくれたんです。それが今でも支えになっていますね。

宗東博文さん
この続きは1ヶ月無料のお試し購読すると
読むことができます。

関連記事

「親子関係は?元気になったきっかけは?」3人の経験者が語る私の不登校とその後

625号 2024/5/1

「40代で人生2度目のひきこもり」ひきこもり経験者が語るふたたび動き出すまでの出来事と気持ち

624号 2024/4/15

「30歳を目前に焦っていた」就活失敗を機に大学生でひきこもった私が再び動き出すまでに取り組んだこと

623号 2024/4/1

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

625号 2024/5/1

「つらいときは1日ずつ生きればいい」。実業家としてマネジメントやコンサルタント…

624号 2024/4/15

タレント・インフルエンサーとしてメディアやSNSを通して、多くの若者たちの悩み…

623号 2024/4/1

就活の失敗を機に、22歳から3年間ひきこもったという岡本圭太さん。ひきこもりか…