不登校の5年後を追った追跡調査(不登校生徒に関する追跡調査研究会/座長・森田洋司氏)によると、不登校経験者がもっとも多く選んだ不登校継続の理由は「無気力でなんとなく学校へ行かなかったため」(44・4%/複数回答)だった。この結果を受け、編集部の石井志昂が本紙394号の「考察」に記事を掲載。この件について、本紙理事の山下耕平氏に原稿を依頼した。
あたりまえの話だが、どんな調査でも取材でも、かならず聞く側の意図が反映している。質問項目、形式、回答の解釈、分析……すべてに、聞く側の意図が影響している。不登校の理由を聞くのだって、そもそも学校に行く理由は聞かないのに、行かない理由を聞くということからして、聞く側の意図があらわれている。調査や報道を読むときには、そういうカラクリを見抜く「リテラシー」が必要だと言えるだろう。
それはさておき。問いをひっくり返して、子どもが学校に行く理由、動機を考えてみたら、どうなるだろう? 将来のため、友だちがいるから、あたりまえだから、休むのは怖いから……いろいろに理由はあるだろう。「無気力でなんとなく通いつづけていた」という人も、相当数いることと思う。
おそらく、多くの人がもやっと感じているのは、かつてと比べて、学校に行く明確な動機が見えなくなっている、ということではないだろうか? いい学校→いい会社=幸せと思える時代ではなくなった。何のために勉強するのか、何のために学校に行くのか、見えないままに、ほかに選択肢も見えないから行き続けている。気力というのは、目標や目的が見えなければ、わいてくるものではないだろう。
「無気力」と自他ともに思える不登校があるとすれば、その以前に、学校に行くことに気力がわかなくなった、ということがあるのではないかと私は思う。
そして、それはあたりまえのことだろう。むしろ、悪いことじゃないと思う。高度経済成長的にモーレツに突っ走り、おおかたの子どもが気力も体力も総動員して学校に投入していた時代のほうが異常だったのだ。戦争中に戦争に「無気力」だと「非国民」扱いされたようなもので、学校総動員時代の不登校は、「なんとなく」ではすまされない問題だったと言える。
なんとなく、登校/不登校する時代はしかし、先行きの見えない、不安な時代でもある。どっちに進んでも、もやもやとしている。この時代に必要なのは、もやもやを解消してくれる目的を無理に見いだすことではなく、もやもやを前提にしながら生きていく工夫だろう。
でも、もやもやに耐えきれず、どこかに「神さま」をほしがったり、逆に「敵」を見出そうとする動きは絶えない。たとえばヘイトスピーチの問題も、そういう文脈でみないと、「差別だ」と言って、ただ抑圧しても問題は解決しないだろう。
不登校に即して言えば、「学校信仰」が揺らいだ代わりにフリースクールを「信仰」するというのでは、それも苦しい。そういう「信仰」は、別の根深い抑圧をもたらしてきたのではないだろうか? そして、その抑圧された怨念は、どこかに噴出せざるを得ないだろう。
いま、フリースクール支援の動きが出てきているが、足下を見ないままに進めば、かならず、しっぺ返しがあるだろう。
せっかく不透明な時代になったのだから、不透明を生きる工夫を、いっしょに考えたいと私は思っている。(山下耕平)
読者コメント