学校に行けない、行かない、ただそれだけで、ほとんどの人が激しい痛みを背負わされる。私もその一人だった。不登校の友人たちもそうだった。不登校の子だけではない。大津市中2いじめ自殺で亡くなった子は、壮絶ないじめを受けながら学校に通い続けて亡くなった。大津の少年は自殺する2日前、「学校へ行かない方法はないか」と周囲に打ち明けていたという。なんらかの理由で学校と距離をとりたくても、「学校か死か」という選択肢にまで追い詰められた子は後を絶たない。

不登校の問題?

 
 不登校は「なんらかの理由で学校と距離をとっている状態」なのだが、そのこと自体が問題なのだろうか。そこに「激しい痛み」が伴い、その痛みを誰からも共感されず、分かち合われることもなく、孤独に苦しむ。ここが「問題」ではないか。子どもだけではない。周囲の者も痛みを背負わされる。痛みをともなったぶんだけ問題の本質に気づくこともあるが、やはりそれはなくてもいい「痛み」ではないだろうか。
 
 「不登校に関する協力者会議」が開かれた。この会議の持つ意味は、不登校政策の大枠を決めるものであり重大だ。その第1回会議で「不登校の痛み」に共感する発言は一度しかなかった。会議の時間は3時間もあったのにだ。
 
 不登校の痛み、その現実に気持ちを寄せない検討、議論、結果に、私たち不登校を知る者はどれだけ共感するのだろうか。
 
 ぜひ協力者会議には不登校の子ども本人を呼んでもらいたい。「フリースクール等検討会議」では、すでにそれを検討している。不登校の痛み、それがどれほどだったのか、その耳で聞いてもらいたい。(石井志昂)