手元に文字の薄くなった一枚の小さな紙切れがある。3月23日のガソリン3000円分のレシートである。東日本大震災後、ようやくガソリンを補給することができた。燃料計は半分にも届かず、これが購入できる上限であった。しかし、長時間並んでも、誰も列に割り込みもせず、3000円分に不満を言う人はいない。これで私は出勤や買い物ができると思うと、ホッとした気持ちになった。

 出勤時は路肩の崩れた片側をそっと走り、亀裂と段差の生じたところでは車輪をゆっくり動かしながら進んだ。危険な場所では、後ろの車から見ず知らずの運転手が走り出て誘導してくれた。ガソリン不足にならないよう暖房は切って走ったので車内は寒かった。自宅から見える国道に車はほとんど走らず、私たちは陸の孤島の中にあった。

 震災直後から広い範囲で水道が断水した。震災後2~3日目ごろから、朝早く川で水を汲む人の姿があった。トイレを流すための水汲みでもあったの だろうか。さいわいわが家では地下水をくみ上げており、近隣の人たちに供することができた。ホームセンターからはポリタンクがあっというまになくなり、家 庭から持参した鍋やヤカンのわずかな水に誰もが喜んだ。半月もこうした状況が続いた。

 震災直後、わが家から西方約6㎞の藤沼湖が決壊し た。約150万立方メートルの大量の農業用水は一気に北斜面を流れ、下流の集落と田畑を襲った。この惨状を目撃した人は「樹齢数十年の樹木が立ったまま流 されてきた」と言う。また、石段の最上段から見ていた近くの住職は「濁流は二度やってきた。一時おさまり、そのとき、多くの被災者が貴重品の持ち出しに自 宅に戻った。そののち、ふたたび大量の水が襲ってきた。遺体が発見されたとき、位牌を抱いたまま亡くなっている人がいた」と私に語った。また、東北の遅い 桜が満開になった4月下旬、40数㎞下流の阿武隈川で女子中学生の遺体が見つかった。水汲みに来た近くの男子は「流されたクラスメートを消防団や警察と いっしょに探すと言ったら、先生に止められた」と泣きじゃくりながら語った。春の田植えを行なうことができず、蛍を見ることもない夏となった。

 放射能については除染活動が遅れていたが、ようやく秋以降、始まった。

  昨年は多くの悲惨な出来事が私たちの近くで起こった。だが、被災者はどのような場面でも怒りをあらわすことはなかった。ともに困難な状況を静かに語り合 い、目には多くの涙があふれていた。慈愛のあふれる顔があった。涙が乾くとき、私たちの福島に新たな人と地域の再生が始まると思うこのごろである。
福島県 大岡清一