■はじめに

 ひさびさに『不登校新聞』に出会い、さまざまな想いにかられて、今この文章を書いています。僕は今から10年以上前、東京シューレと出会い、ホームシューレ(在宅者ネットワーク団体)会員として不登校時代をすごしました。1985年4月生まれ。今年30歳になりました。時期的にも、過去をふり返って思い出すのはギリギリではないかと思い、書き残しておきます。

 「どうして不登校になったのか?」。

 長年これは自分でも、ちっとも理解できないでいましたが、今にして思い返すと「こういうことかな」というところを書いていきます。かなり長いですが、新聞の字数的制約では伝わらない細かいところを、まどろっこしくならない程度に丁寧に書いていきます。


■家族構成と幼少期

 わが家は父、母、そして男4兄弟の6人家族です。僕はその末っ子で、ひとつ上の兄ともふたつほど離れていることもあり、みんなからとてもかわいがられて育ちました。よく笑い、泣き虫でもありましたが、次の日にはケロッと忘れているような明るい子どもでした。孤独なんてちっとも感じたことはありませんでした。家にいるのは大好きで、不安なことなんて何もありません。ただ、そのせいでしょうか、保育園の頃から登園を渋るようなところがありました。

 「家にいるほうが楽しいのに、どうして行かなきゃいけないの?」。

 その気持ちは幼稚園でも続きましたが、小学校入学の頃には「子ども」という立場を理解して、みんなと並んで登校するようになっていました。


■10歳。(1995年3月、地下鉄サリン事件)

 10歳の小学4年生のとき、長崎に引っ越しました。前年から父が単身赴任していました。もともと「お父さん大好き」で、就寝時は隣で寝るほどベッタリだった僕にとって、ふたたびいっしょに暮らせる日は待ち望んでいたことでした。

 でもその結果、残念ながら転校した先の学校でうまくなじめませんでした。最初こそ転校生は注目されますが、すでに関係が出来上がっている同級生たちのなかで、自分の居場所を見つけることはできませんでした。部活に入ってもみましたが、そこも同じ。しかも、小学生なのに妙に上下関係にうるさいところが嫌いでした。

 学校が終わってから遊ぶ友達はいましたが、要するに「近所に住んでいる」というだけの同級生です。彼には以前からの友達がいました。すると、つい「僕がいなくてもいいんでしょ」と思ってしまいます。誘われたら行くけど、誘うことはできない。転校して初めて、自分が友達づくりが下手なことに気付かされました。

 夏休みも終わり、季節は秋から冬へ。学校が終わったらひとりぼっち。テレビが友達。次第に下校の足取りが重く、気疲れを感じていました。

 「明日また行かなければならないのか」と。


■11歳。(1996年4月、オウム真理教麻原彰晃初公判/7月、アトランタオリンピックで有森裕子が銅メダル/12月、ペルー日本大使公邸占拠事件)

 5年生からはダメだとわかっていながらも、学校を頻繁に休みだします。すると自習もしていないので、授業にもついていけなくなり、ますます行く気になれません。

 「友達もいないし勉強もできない。コレじゃ行く意味ないよ……」。

 で、これを周囲にどう説明すればよいのか。当時の僕にはムリでした。考えれば考えるほど、自分ではどうしようもないものと戦わなければならないというプレッシャーに負けて、そこから逃れたくなります。

 結果、自分の殻に閉じこもり、いっさいの説明を拒否しました。そして「テコでも学校には行かないぞ」という態度で毎朝のぞみました。しかし大人たちは放っておくわけにはいきません。最初は優しかった両親も、理由らしきことをひとつも話さない息子の態度に「甘え」だと怒り、朝の登校圧力は過激かつ強引になっていきました。おそらく考えられるかぎりのことを尽くしたのでしょう。朝は戦場になりました。


 毎朝、目が覚めると「なんとか行かなくてすむように」と願います。「今日は熱があればいいな」「今日は諦めてくれないかな」と。

 朝のテレビ番組「めざましテレビ」のエンディングにテーマソング(ララサンシャイン/森高千里)がかかると、時刻は8時になる頃なので登校ギリギリの時間です。

 <泣いてもダメさ、ほら朝だ、朝だ、起きよう♪>

 こんな僕のことを言っているかのような歌詞。当時は聴くだけで嗚咽が始まり鼓動も激しくなりました。おかげで今でも「めざましテレビ」を見るとアレルギー反応で少しドキドキします。ちなみに、今回ちゃんと調べてみると、実際の歌詞は「泣いてもダメさ」ではなく「涙もかれた」だったのですが、当時はこんなふうに聴こえたので、そう覚えてしまいました。


 無理に起こす両親と必死で抵抗する僕。嗚咽が止まらなくなったり、物にしがみついたり、泣いてなんとかやり過ごそうとします。でもそれは無駄。相手は学校信仰の狂信者なのでした。

 その手段については、段階に応じて、いくつかパターンがあるので紹介します。

(1)説得

 具体的には「子どもは学校にいくのが仕事だ」とか「つらいのはみんな一緒だ」とか「ズル休みだ」とかです。

 この方法は他のものとは根本的に違います。それは「自分でもよくわかっている」ということです。人生にはレールが敷かれていて、子どもの時はみんな学校へ。大人になったら、いくつもの支線に分かれている。でもその手前で脱線したらどうなるか……。毎日毎日この事ばかり考えていました。

 結局、その日休んだとしても心が休まらないという点では、もっとも暴力的な手段です。

(2)車に連れ込んで学校まで送る

 この場合は観念して学校に行きます。でも、みんなに見られるのが恥ずかしいから、学校の手前でおろしてもらいます。そして途中で帰る勇気もなく、苦痛に耐えながら一日を過ごし、放課後、家路につきます。

 本人の意に反しても登校させて、うまくいったつもりでしょうが、人をモノ扱いした考え方です。

(3)家から放り出す

 この場合は行ったふりして家と塀の間に身を隠します。とにかく行きたくないけれど、近所の人にも見られたくありません。「学校に行かない子ども」は存在してはいけないと信じ込んでいましたから、大人にバレたら大変だと心配していました。親も仕事などで出かけます。親が帰ってくる時間はまちまちなので、ひどいときは夕方までその状態で過ごしました。そして、帰ってきたところで「まだこんなとこにいる!」と言われ、冷たい視線を投げかけられます。

 車で送るのと似てますが、人間扱いされていません。野良犬みたいな気持ちです。

(4)殴る

 一度だけのことでしたが印象は強烈です。ある朝、いつものように抵抗していたら、言葉を失った父が、いきなり平手で僕の頬を叩きました。「ついに来たか」と内心冷静な部分もありました。意外だったのはここからです。止めてくれるかと期待した母が、「いいよ。もっと叩いて。こんな子叩かないとわからないから」と言い出したのです。その言葉を聞いた父はさらに4、5発、左右から浴びせるように叩きました。叩き続ける父と、それをあおった母の二人に囲まれて、僕は放心状態でした。鼻血が出るほど殴られましたが、それ以上に心の痛みが大きすぎて「ショックだった」の一言では言い表せません。喪失感というか信じるものがなくなったというか……。

 すでに「体罰は悪い」という価値観も知っていましたから、手を挙げた父と、それを肯定した母を、見下すと同時に哀れに思いました。幼い頃から、叱られても殴られることは決してなかったという点でも大きな衝撃でした。失望しました。

 注意してほしいのですが、この4つに順位を付けて、どれが「一番つらかった」とか、「一番マシだった」などとは、まったく思わないということです。僕にとっては、それぞれに苦しさがあり、切なさがあり、悲しみがあります。だから、これはあくまでも特徴を上げたものだと受け取ってください。


 それにしても今にしてみれば、なぜ両親は幼い子どもに対して、ここまでできたのだろうと不思議です。しかし、それについてはこう推測しています。

 僕は学校にさえ行けば、ごく普通にすごせていました。もちろん「表面上は」です。授業や休み時間は苦痛でしたが、時間を潰すのは難しくありません。


この記事は登録読者だけが閲覧可能な内容を含みます。続きを読むにはPublishers IDによる読者登録が必要です。