――チェチェン民族の特徴を教えてください。
それは子どもへの教えに表れています。どの子どもも「客人を大事にする」「感情をコントロールする」ことを教わります。その背景には悲劇の歴史があるからです。
1944年の強制移住は、ユダヤ人へのホロコーストと同じ位置づけだと言えるでしょう。
私の両親も強制移住をさせられた世代です。聞いた話によると、チェチェン人は、家畜用に使われる貨物列車に、ぎゅうぎゅうに押し込まれ、ほとんど一夜にしてカザフスタンに連れて行かれました。移動中には極寒と飢えのため、乗客が次々と死に、生き残った人も病人同然で移住先に着きました。移住先に着いたときの気温は氷点下45度だったそうです。
移住先でも迫害を受けました。行政は地元民に対して「チェチェン人を助けるな」というプロパガンダを徹底していました。チェチェン人に、パンを与えること、治療することすら、拒否させました。強制移動からチェチェンに帰ったとき、当初いた50万人のチェチェン人は半数に減っていたと言われています。
強制移動にあるように、チェチェン人はロシアの人からの差別をずっと受けてきたわけです。
電気・ガス お湯すら不足
――第一次戦争開始のとき、どんな状況でしたか?
94年12月11日、エリツィン大統領(当時)が「チェチェン共和国内での憲法的秩序の確立」を理由に軍事侵攻を公式に発表しました。しかし、同年10月ごろより、チェチェン首都グローズネイでは爆撃が始まっており、戦争状態に突入していました。この爆撃を政府は「アゼルバイジャンからの爆撃」だと主張していましたが、のちに発覚した状況からもロシアの爆撃だったことはまちがいありません。
――そこから野戦外科医を始めたんですね。
第一次、第二次の戦争で多くの医師や看護師がいなくなりました。もちろん、医師だけではありません。戦前、チェチェンは100万人強の人口がでしたが、現在は45万人です。推定ですが、戦争での死亡者は25万人、国外逃亡者は15万人、国内逃亡者も15万人と言われています。
こうしたなか、私も病院で爆撃にあったり、自宅を開放した診療所にロケットが撃ち込まれたり、とても恐ろしい経験をしました。ですから、状況によって転々と診療場所を変えざるをえないことが多かったです。
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