福島の子ども代表4人(小中学生)が8月17日、衆院議員会館で、内閣府原子力災害対策本部と文科省の職員に、子どもたちの手紙37通を手渡しました。東日本大震災に伴い発生した福島第一原発事故による放射能汚染への不安と子どもたちのいのちと健康を守ることを求める思いを伝えました。そのようすはテレビでも報道されましたが、子どもたちの素朴な問いに職員らが的確に説明できない場面から感じられたことは、大人たちが、人々、とりわけ子どものいのちを守る信念に基づいて考え抜き、知恵を築きあげてこなかったという結果が現われているということでした。
他方で、子どもたちが、協力する大人たちとともに自ら学び、考え、意見表明の声を上げ始めたことには希望が見えます。これは国連子どもの権利条約がめざす「子どもの参加」のひとつの実践と言えます。被災地の復興も、大人たちの都合で決めるのではなく、地域に住む子どもたちの意見に耳を傾けて共同で進めることができたら、本当に人々が生活しやすい地域づくりができるでしょう。
一方で、大阪では、知事が率いる「大阪維新の会」なる古めかしい名前の会が市議会に提案する「教育基本条例案」を発表。知事や市長は学校がはたすべき「教育目標」を定めました。それを達成できない教育委員会の委員を罷免する権限をもつ、卒業式などで君が代を起立斉唱させる職務命令に違反した職員は免職できるなど、権力が学校教育の現場に歯止めなく踏み込むことを許すことになります。
最近、最高裁は君が代起立斉唱の職務命令は違法でないとの判決を相次いで出しましたが、そのなかにあって一人の判事が「起立強制が熱意と意欲に満ちた教師による生き生きとした教育の生命が失われる」と懸念を示す意見を述べました。しかし、残念ながら、最高裁判決の多数意見と大阪の教育基本条例案に共通するのは、子どもが自由に学ぶ権利の視点がまったくないことです。権力が支配する荒廃した学校から離れる子どもはさらに増えるでしょう。不登校を大切に受けとめる意味はますます大きくなると思われます。
子どもたちにとってもうひとつの深刻な荒廃は子どもの虐待問題です。厚労省は2010年に全国の児童相談所が対応した子どもの虐待相談件数が5万5152件(宮城、福島を除く集計速報)と発表しました(前年が4万4211件)。
この激増の背景には、たんに親個人の問題ではなく、格差社会の歪みのなかで広がる子育て不安という問題が見えてきます。この発表の直後に東京で、里親として3歳の子を養育していた女性が子どもを虐待死させた容疑で逮捕されました。報道では、親の虐待から保護された幼い子どもを里親が育てるとき、その子どもの「愛着障害」や情緒の不安定さにふりまわされる困難さも強調されていました。
しかし、実際には、家庭で深刻な虐待を受けた子どもの多くは児童福祉施設に保護され、里親委託は少ないのです。日本政府は、国連子どもの権利委員会からも、里親などの家庭的な環境で子どもを養護する政策が不十分であることを指摘されました。児童福祉施設で育つ子どもらの社会的自立への援助も貧しく、未成年後見人など適切な保護者もないまま、15歳や18歳の年齢で社会に放流され、就労しても続かず、たちまちホームレス状態になる例もあります。児童福祉施設の問題も里親が適切な支援がないまま孤立して養育に苦しむのも、本当に子どもの視点に立って子どものニーズを受けとめる児童福祉の施策がないことに原因があるというべきでしょう。いま、教育、福祉、震災復興など、どれもが子どもの視点からその問題の本質を見直すべき時機ではないでしょうか。(弁護士・多田元)
読者コメント