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 人を殺してしまった。
 
 あのマンションの前は、何度も通りすぎたことがある。10階以上はあるのかと思っていたけれど、実際は8階までしかないらしい。それでも、8階分の高さがあれば、人は死ねるのだ。
 
 ニュースキャスターは、淡々と原稿を読んでいる。リモコンを取り、テレビのボリュームを1つ上げる。
 
 死んだ彼は僕より1学年上で、遺書は見つかっていないようだ。飛び降りた当日も、登校はしていたらしい。保健室登校とは何だろう。授業は受けるのだろうか。画面は見慣れたマンションの映像からスタジオに移り、ニュースキャスターは次の原稿を読み始めた。
 
  *   *   *
 
 最初は、電柱の陰で電話をしていたあの女に、また背後から声をかけられたのだと思った。僕はとっさに逃げた。赤いスプレーを握り締め、全力で走った。でも、すいません、とかけられた声は男のものだと、すぐに気づいて走るのをやめた。ふり返っても深夜の通学路にはもう、誰もいなかった。立ち止まったのはちょうど、彼が飛び降りたマンションの前だった。
 
  *   *   *
 
 部屋を出てリビングのドアを開ける。電話の子機を取り部屋へ戻り、110とダイヤルを押す。声は、すぐに聞こえた。
 
「あの、人を殺してしまったんですけど」
 
「人を殺してしまった? いつですか?」
 
「えーと、いつなんだろ。たぶん、昨日かおととい飛び降りたんだと思います。はっきりとはわかりません」
 
「飛び降りた? あなたが殺害したんですよね?」
 
「はい」
 
「高所から突き落として殺害したということ?」
 
「ちがいます」
 
「飛び降りるよう脅したということ?」
 
「ちがいます。飛び降りる数日前にその人に声をかけられたんですよ。でも僕は走って逃げて、無視したんです」
 
「うん。それで?」
 
「それで、うん、そうです、それで、その人が死にました」
 
「ちょっと待って、話がわからないです」
 
 どうして話が伝わらないのだろう。この警察官は馬鹿なのだろうか。彼は最後の救いを求めて僕に声をかけたのだ。すいません、という一言に命を懸けたのだ。僕の知らないところで、彼はずっと僕を見ていた。深夜の通学路で、赤いスプレーを地面に噴射する姿を見ていた。もしかしたら赤い点に混じっていた黄色い点は、彼が付けたものだったのかもしれない。
 
「きっとその人は僕と同じだったんです」
 
「もっとわかるように説明してださい」
 
「僕は彼を拒んでしまった。助けを求める最後の声を無視してしまった」
 
「落ち着いて。ゆっくりでいいので、私にわかるように話してください」
 
「僕は捕まらないんですか?」
 
「捕まえようも、捕まえる必要もありません」
 
「どうして?」
 
「そもそも、飛び降りた人と、声をかけてきた人は同じ人物なんですか? いいですか、もう一度最初から確認していきますよ? 昨日かおととい……」
 
 通話を切ったのと同時に、電話が手の中から床へと落ちた。壁へ電話を投げつけたかったけれど、そんな力は出なかった。落ちた電話を拾い上げなければ。そうわかっていても、手を伸ばすことさえ煩わしかった。(つづく)

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