不登校新聞

322号(2011.9.15)

“不登校の子どもの権利宣言”追補文全文

2013年06月11日 15:10 by kito-shin
2013年06月11日 15:10 by kito-shin

<前文>

 私たち子どもはひとりひとりが個性を持った人間です。

 しかし、不登校をしている私たちの多くが、学校に行くことが当たり前という社会の価値観の中で、私たちの悩みや思いを、十分に理解できない人たちから心無い言葉を言われ、傷つけられることを経験しています。
 
 不登校の私たちの権利を伝えるため、すべてのおとなたちに向けて私たちは声をあげます。
 
 おとなたち、特に保護者や教師は、子どもの声に耳を傾け、私たちの考えや個々の価値観と、子どもの最善の利益を尊重してください。そして共に生きやすい社会をつくっていきませんか。 
 
 多くの不登校の子どもや、苦しみながら学校に行き続けている子どもが、一人でも自身に合った生き方や学び方を選べる世の中になるように、今日この大会で次のことを宣言します。
 

1.教育への権利

【条文】
 私たちには、教育への権利がある。学校へ行く・行かないを自身で決める権利がある。義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。子どもが学校に行くことは義務ではない。

【子どもの思い】
 いじめがきっかけで、小学校に行けなくなった。行かなくなってほっとしたけど、その頃私は、義務教育の義務は子どもが学校に行く事だと思ってたし、周りの大人もそういう考えだった。学校に行けずに"休んでしまってる"って後ろめたい気持ちで過ごしていた。

 しばらくしたら、周りの大人たちに、「義務教育くらいは学校に行きなさい」とか、「義務教育なんだから」って言われる様になって嫌だったし、義務って何だろうって強く思った。子どもが学校に行く事が義務ではなくて、権利だということを後から知って、自分は間違ってなかったんだ、と本当の意味で安心することが出来た。

2.学ぶ権利

【条文】
 私たちには、学びたいことを自身に合った方法で学ぶ権利がある。学びとは、私たちの意思で知ることであり他者から強制されるものではない。私たちは、生きていく中で多くのことを学んでいる。

【子どもの思い】
 いつも勉強についていけなかった。学年が上がるともっと授業が理解できなかった。転校先の学校で不安な中、勉強にもついていけず、問題が解けないと残らされ、焦るほど頭が回らず、胃が重くて苦しかった。宿題も問題が解けず、いつも泣きながらドリルをぐちゃぐちゃに塗ってしまい、あとで消しゴムで消さなきゃならなかった。競わされることも、楽しくない原因のひとつだった。学校に行けなくなって、勉強の遅れが取り戻せない、とさらに焦った。時間がたって、学校に行っていない人がたくさんいること、学校に行かずに大人になった人がいることを知り、机に向かう勉強だけが学びじゃないんだと知って、とても気持ちが楽になった。どこかに出かける、家事をする、映画を観る、読書をする、そうする中にもたくさんの学びがある。勉強は、競わされたり押し付けられてするものではないから。自分がやりたいと思ったときに学ぶから、よく理解できるし楽しめるんだと私は思う。

3.学び・育ちのあり方を選ぶ権利

【条文】
 私たちには、学校、フリースクール、フリースペース、ホームエデュケーション(家で過ごし・学ぶ)など、どのように学び・育つかを選ぶ権利がある。おとなは、学校に行くことが当たり前だという考えを子どもに押し付けないでほしい。

【子どもの思い】
 学校へ行きたくなくなった時は、どうしよう…という気持ちでいっぱいだった。休むのは悪いことだと思っていたし、行けなくなったら人生が終わりとまではいかなくても、今まであったものの全てが無くなるような気がした。でも無理矢理学校に行っていたころは出ていた喘息が、実際に休んでみると止まる。気持ちもとても楽になった。それから半年くらい経って、両親からフリースクールを進められた。「学校に行かない道もあるのかな?」と思って行ってみる。だけど入会して初日にも関わらず「そろそろ学校に行かない?」と言われた。期待はずれだった。その頃の私が小学三年生と小さかったこともあって、「ほっておいてもその内、学校に戻るだろう」と思われていたのかもしれない。とにかく大人の視線が痛かった。その後、現在通っているフリースクールに出会った。学校にとらわれない考え方やそういう空気に触れて、徐々に「あ、なんだ。学校以外にも道、あるんじゃん」と思えるようになった。家でも、フリースクールでも、学べたことが沢山あった。学校だけじゃなく、もっといろんな生き方が認められていけば、それだけ視野も広がるし可能性も生まれる。

4.安心して休む権利

【条文】 
 私たちには、安心して休む権利がある。おとなは、学校やそのほかの通うべきとされたところに、本人の気持ちに反して行かせるのではなく、家などの安心できる環境で、ゆっくり過ごすことを保障してほしい。

【子どもの思い】
 私はあるときから学校へ通えなくなった。学校へ行くと誰かに嫌なことをしてしまいそうだった。ずっと学校を休みたいと思っていたのに、お腹が痛くなり学校を休んでみると、みんなが学校へ行っている時間に家でゆっくりするなんて、と、罪悪感や不安感で胸がいっぱいになった。学校を休んでも、気持ちと体はちっとも休まらず、布団にもぐって泣く毎日だった。「元気になって早く学校に来て」と何度も言われた。学校に行かなきゃいけない、頑張らなきゃいけない、と焦った。でも、体や心の奥はそれとは逆に、学校へ行こうとすると、頭やお腹が痛くなったり気持ち悪くなって行けなかった。その後も、疲れきった体が休まるまでには随分時間がかかったと思う。生きるのが嫌になるくらい苦しいとき、休むことすら苦しいときがある。やっと休めたのは、学校へ行くことが全てじゃないんだ、家に居てもいいんだと思えてからだった。

5.ありのままに生きる権利

【条文】 
 私たちは、ひとりひとり違う人間である。おとなは子どもに対して競争に追いたてたり、比較して優劣をつけてはならない。歩む速度や歩む道は自身で決める。

【子どもの思い】
 私は吃音で、よく言葉がつまったり、どもったりするんだけど、学校ではその私が当たり前、というより、「みんなと同じようにして」「治して」という雰囲気を感じていた。スピーチ・音読・発表・・・みんなと同じようにできなきゃ、つらいことばかりだった。たまに、吃音のことを知らないみんなに迷惑をかけてしまうこともあった。吃音のことだけじゃなく、不器用で要領の悪い私は、作業の速度も遅く、しょっちゅう先生に手伝ってもらったりもしていた。ありがたいけど、みんなと同じようにできない自分を惨めに思った。人と同じでないことは、悪いことなのだろうか?どうして、同じでないとつらいことばかりなんだろう。

6. 差別を受けない権利

【条文】
 不登校、障がい、成績、能力、年齢、性別、性格、容姿、国籍、家庭事情などを理由とする差別をしてはならない。例えばおとなは、不登校の子どもと遊ぶと自分の子どもまでもが不登校になるという偏見から、子ども同士の関係に制限を付けないでほしい。

【子どもの思い】
 学校に行かなくなっても友達はいた。でも、学校に行っていない私と学校に行っている子が一緒にいるのは大人があまりいい顔をしなかった。その友達の親も自分の子も不登校になるのを心配するし、教師もプレッシャーをかける。周りの目も気になり、外でも遊びにくくなった。そうなると友達の家で遊ぶことが多くなった。その子の親から「不登校がうつるから関わらないでほしい」と電話で告げられた。その子とはそれ以来会えなくなった。それと、私には三つ違いの妹が居る。妹は学校へ通ってる。私は通ってない。私といたら妹も不登校になるらしい。母と妹にそう言われた。テストが近いときや勉強してる時は一緒にいられなくなった。悪影響があるんだって。周りの価値観に合せたりするのも結構つらいし、自分が自分であるためにも周りと比べられることのない環境がほしい。差別はうける方もする方もつらいし何も生まれない。

7.公的な費用による保障を受ける

【条文】
 学校外の学び・育ちを選んだ私たちにも、学校に行っている子どもと同じように公的な費用による保障を受ける権利がある。例えば、フリースクール・フリースペースに所属している、小・中学生と高校生は通学定期券が保障されているが、高校に在籍していない子どもたちには保障されていない。すべての子どもが平等に公的費用を受けられる社会にしてほしい。

【子どもの思い】 
 学校が自分の居場所ではなかった私は、苦しくて学校に行けなくなった。ある日、フリースクールを知り、行きたい場所ができた。家庭の金銭の事情でフリースクールに行けなかった。中学生だった私は、バイトなどお金を得る手段もなかった。親には「お金がかかるから、学校にいけばいいのに」と言われ、フリースクールにも通えずに、家の中でもつらい毎日だった。「この場所に通いたい」「ここが居場所だ」と思える場所を子ども自身が選ぶことができて、お金などを気にせずに安心して、通えることができたら、心の余裕も生まれ、楽しいことや学びを探せると思う。

8.暴力から守られ安心して育つ

【条文】
 私たちには、不登校を理由にした暴力から守られ、安心して育つ権利がある。おとなは、子どもに対し体罰、虐待、暴力的な入所・入院などのあらゆる暴力をしてはならない。

【子どもの思い】
 小5の時に学校で友達としょうもないいたずらをした。それを1学年上の先生に見つかった。僕は友達のとなりにいて見ていただけなのに、すごく怒られた。僕はやっていないと言い、友人もそう言ってくれたが、先生は全く聞き入れてくれなかった。訴えるのに先生の胸元をつかんだら、そのまま背負い投げをされた。それだけでは止まらず、背中を壁に押し付けられ「ふざけんなよ」とガンガン揺さぶられた。僕はパニック状態で泣きまくり、呼吸ができなくなって過呼吸になった。通りかかった別の先生が止めてくれたが、暴力を振るった先生は「ふざけるなよ」と言って去っていった。その後、夜に寝ていたら、フラッシュバックでいろんな記憶がでてきた。先生の暴力がよぎると、涙がずっと止まらなくなり、過呼吸になったこともあった。

9.プライバシーの権利

【条文】 
 おとなは私たちのプライバシーを侵害してはならない。例えば、学校に行くよう説得するために、教師が家に勝手に押しかけてくることや、時間に関係なく何度も電話をかけてくること、親が教師に家での様子を話すこと※もプライバシーの侵害である。私たち自身に関することは、必ず意見を聞いてほしい。

【子どもの思い】
 親に携帯電話のメールを勝手にみられたりした。自分は学校に行かなくなってから、友達との連絡は携帯のメールだけだったからそれを人に見られるのがとても嫌だった。別に見られても困らないんだけど、見られるということが嫌だった。他には自分がいない時に部屋に入っていること。勝手に部屋に入って、勝手に部屋の掃除をする。部屋の中には見られたくないものだってあるのに。これは家の中に限ったことじゃなくて、学校でも突然の持ち物検査で教師に鞄の中や机の中を見られる。前日の部活の遠征の時に使った財布をうっかり鞄に入れっぱなしにしていて、ひどく怒られた。
※子どもの意思に反して、勝手に親と教師が子どもの様子を話すことを指しています。

10.対等な人格として認められる

【条文】 
 学校や社会、生活の中で子どもの権利が活かされるように、おとなは私たちを対等な人格として認め、いっしょに考えなければならない。子どもが自身の考えや気持ちをありのままに伝えることができる関係、環境が必要である。

【子どもの思い】 
 自分は中学生の時にバドミントン部に入っていた。顧問の先生は、私だけほかの部員とは明らかに違う態度をとっていた。それがとても嫌だった。もともとほんの些細なことで喧嘩をしてしまい、そのあとの夏休みの間は、練習をさせてもらえず毎日5~8時間脇で立っていることしかさせてくれなかった。今、考え直すと、対等な人格すら認めてもらえなかったし、子どもの権利なんてわかってもらえなかった。一緒に考えることもしてくれなかった。そのうちに自分の考えや気持ちもカラッカラに乾燥しきってしまう。子どもの考えや気持ちがカラッカラに乾燥する前に、少しでもいいから自分を認めてもらう環境はできたほうがいいと思う。

11.不登校をしている私たちの

【条文】 
 おとなは、不登校をしている私たちの生き方を認めてほしい。私たちと向き合うことから不登校を理解してほしい。それなしに、私たちの幸せはうまれない。

【子どもの思い】
 学校へ通わなくなった時を思い出してみる。どこへ行っても、「不登校っていうのは良くない、学校へ通うのが正しい」と頭ごなしに言われた。自分もそれが当然だと思っていた。知り合いのお店によく顔を出していて手伝いなどもしていたのだが、近所の人たちに私の不登校は知れ渡っていて、そこで会うお客さん達にも「行きなさい」と言われ、道を歩いてると知らない初対面の人に声をかけられもの凄い勢いで学校へ行ける素晴らしさなどを語られ「行きなさい」と悟された。図書館などへ行っても中学生の頃は職員の人に声をかけられて、きまずくつらかった。その後、カウンセリングなどにも通い始めるが「休むことは大事だけど、でもなるたけ学校は行きなさい。」みたいなことを言われ矛盾を感じた。あの時は学校へ行かなくなり、自宅にいることで自分は休めたんだと思う。でも、家族も知り合いも周りや全く知らない人にも「学校へ行きなさい」と言われ、学校が全てで、学校に行ってない、通えてない自分は駄目な人間だと思うようになって凄く苦しかった。学校へ通わなくなった1人の人間として向き合ってほしい。人間辞めたわけじゃないんだから。学校へ通わないのも一つの道で選択だ。

12.他者の権利の尊重

【条文】
 私たちは、他者の権利や自由も尊重します。

【子どもの思い】
 「権利」とはなんだろう。私は未だによくわからないけど、たぶん、「当たり前」そして「当たり前の大切さの再確認」ということだと思う。私は、この「不登校の子どもの権利宣言」をつくっていたときに、「これはもしかしたら、自分の当たり前を、相手に押し付けているのではないか?」と考えたことがある。

 「自分の権利や自由を守ってくれ。じゃあ、守る相手の権利は?自由は?」とも考えた。権利は、自由は、自分一人が守られるだけで、本当により良いことなのか?きっとそうじゃないと、私は思う。権利も自由も、あるいは当たり前も、自分一人では成り立たない。自分以外の誰かの権利や自由を、自分も守るから、はじめて権利や自由、当たり前は誰かと繋がって守られるんだと思う。

 私の「当たり前」は、あなたにとっての「当たり前」じゃなくてもいい。あなたの「当たり前」も、私にとっての「当たり前」じゃないかもしれない。けれど私もあなたも、お互いの当たり前を尊重すれば、ともに生きていけると思う。

13.子どもの権利を知る権利

【条文】
 私たちには、子どもの権利を知る権利がある。国やおとなは子どもに対し、子どもの権利を知る機会を保障しなければならない。子どもの権利が守られているかどうかは、子ども自身が決める。

【子どもの思い】 
 「子どもの権利条約」が自分にも当てはまるということを私が知ったのは、つい最近。15~16歳のときだった。小学生のときに教えられた「子どもの権利条約」は、経済的に恵まれた日本に住む私たちにはまるで関係のないことのようだったし、それ以降、自分の権利を改めて認識する機会はなかった。自分の権利について、知っているのと知らないのとでは、価値観や考え方が大きく変わってくる。とても大事なことだと思う。よく権利について教えると、子どもがわがままになると言われるが、大人が子どもの権利について知り、それをきちんと伝えれば、子どもだってちゃんと解る。

(条文は09年に採択、追補版は2011年7月23日発表)

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