1988年10月31日づけの朝日新聞によると、「無我利道場に11トンダンプが台所付近に突っ込んだ際、立ちはだかった新井さんがダンプに腰や足をひかれた。右翼はけがをした新井さんをのけたのち、さらにダンプで家を半壊させ引きあげた。
その後、鹿児島県警へ「松魂塾」側から犯行を認める電話があり、半年間、常駐していた5人を任意同行して調べたうえで逮捕した」とある。
同月6日には、無我利の子どもと仲よくしたことをきっかけにいじめられていた小学5年生の女児が自殺。これらの事態はそれまでの登校拒否追放推進派と反対派の対立構造や運動の仕方を変えていくことになった。
翌1989年、村内に推進・反対のどちらにもくみしない「人尊会」が結成された。これは、無我利の山田さんたちの生き方や暮らし方には賛同しないが、人権尊重という立場から、追放には断固反対する、という団体。会の中心人物である相良謙治さんは、全国に追放運動中止を呼びかけ訴えて歩かれた。
しかし、追放運動を批判したことで、右翼の標的、そして村民の「追放」のほこ先にもなった。
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