不登校新聞

432号 2016/4/15

【公開】小説「少年と午前二時」 天埜裕文 最終回

2016年04月11日 12:32 by kito-shin
2016年04月11日 12:32 by kito-shin


連載「少年と午前二時」第1話へ(全話無料)


 私の家においでよとは、どういう意味だろうか。返事に困っていると女は学校がある方を指さして、ここからすぐの所だから、と言った。そもそも、女はこんな時間にこんな場所で何をしていたのか。どんな理由と目的があるのだろう。
 
「泊まっていってもいいよ。それこそ何日でも、何週間でも、何カ月でも」
 
 女は笑っている。さっきは子どもみたいに見えた女の笑顔は、よく見ると皺だらけだった。
 
「学校に無理矢理連れ戻そうとする人なんか、私の家には来ないよ」
 
「いや、でも」
 
「この前も一人、家に来たばっかりなんだよ。同い年ぐらいじゃないかな。女の子だけどね。その子も学校行ってないって言ってたよ」
 
 もしかして、と思った。
 
「原田さんですか?」
 
「いや、名前はわからない」
 
「どこで知り合ったんですか?」
 
「まぁ、このへん」
 
「もしかしてあそこの自販機じゃないですか?」
 
「あぁ、うん、そう」
 
 女は、ちょっと待ってね、とポケットから出した携帯電話の画面を数回タップすると、耳に当てた。
 
「あ、もしもし、今から来れるかな? 自販機のあたりにいるから。うん。よろしく」
 
 携帯電話をポケットにしまうと女は、すぐに迎えの車が来るから、と言った。車が必要なほど、女の家は遠いのだろうか。たしかさっきは、ここからすぐ、と言っていたはずだ。女は、寒いなぁ、この時期でも夜はやっぱり冷えるよなぁ、と手の平を擦り合わせると、羽織っている薄いシャツを僕に着させた。少しも寒くなかったけれど、僕は断らなかった。シャツからは少し煙草の匂いがして、ノースリーブから覗く女の肩には猫に引っ掻かれたみたいな傷があった。
 
 来たよ、と女が指さしたのは、学校とは反対方向だった。ヘッドライトの灯りが、ゆっくり近づいてくる。女はさっき学校のほうを指さして、ここからすぐ、と言った。まちがいなく、学校の方を指さしていた。車が僕らの前に停まると女は、ほら、と後部座席のドアを開けた。
 
「どうした? ほら、乗って」
 
 紺色のスニーカーを見下ろす。紺色が、赤い地面を踏んでいる。僕が選べることにはかぎりがある。スニーカーの色、食パンにジャムを塗るか塗らないか、そんなどうでもいいことしか、僕には選ぶことができない。家へ帰れば、僕は橋本さんによって無理矢理学校へ連れ戻されるだろう。
 
「どうしたの? 乗らないの?」
 
 車に乗り込むと、女が吸っていた煙草とは別の煙草の匂いがした。僕が乗ると運転席の男は小さな声で、こんばんは、と言って血色の悪い顔を向けた。返事をする間もなく女が続いて乗ってくる。後部座席のドアが大きな音を立てて閉められる。出して、と女が男に伝える。車がゆっくりと動き出す。鈍いエンジン音と共に、通学路を走っていく。ハンドルを握る男の指には大きなシルバーの指輪が光っている。車内に備え付けられた灰皿には吸殻が山盛りになっている。女は後部座席の窓に顔を向け、何も話そうとはしない。スピーカーからは聴いたことのない音楽が流れている。男が指先でハンドルを叩いてリズムをとる。あの大きな指輪で、僕は殴られるのかもしれない。男の手の骨の感触よりも先に、指輪の冷たさを僕は感じるのだろう。きっと原田さんはもう、その冷たさを知っている。もしかしたら原田さんはすでに、どこにもいないのかもしれない。マンションから飛び降りるのと、どちらの方が痛くて苦しいのだろう。
 
 窓の先に学校が見える。暗がりに、ぼんやりと浮かんでいる。輪郭を目で確かめきらないうちに、窓枠の中から学校は消えた。(了)

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