不登校新聞

432号 2016/4/15

『絶歌』 論 元少年Aでさえ気づいていない本質

2016年04月11日 15:04 by koguma
2016年04月11日 15:04 by koguma


 2015年6月に出版された『絶歌』。神戸連続児童殺傷事件(下記のメモ参照)から18年経ってから出版された元少年Aの手記ということで、メディアを大きく騒がせたのは記憶に新しい。「本格的に向き合う価値がある1冊」だという評論家・芹沢俊介さんの講演抄録を掲載する。

 『絶歌』をめぐっては出版直後から「読むに値しない本だ」「不愉快きわまりない」などいろんな声が出ました。この本が問題作であることはまちがいありません。しかし、善悪という価値判断だけで切り捨てていいのかというと、それほど単純ではないと思います。文芸批評に値する文体を兼ねそろえているし、中身についても本格的に対話する価値のある本だと思っています。きちんと読むことで、僕は元少年Aの主張を崩してしまいたいんですね。
 
 『絶歌』をどう読み解けばいいのか。「養育」から考えるというのが僕の視点です。彼の主張を崩すうえでも、同じような事件が二度と起きてほしくないという予防の意味でも、また何より善悪という価値観から離れて考えることができるという点においても、「養育」という切り口はとても有効だと思います。
 
 「養育」、つまりは「育ての問題」ということですが、具体的に考える取っ掛かりとして「よるべなさ」というキーワードを挙げたいと思います。これは拙著『家族という意志』(岩波新書)の中心に据えた言葉なんです。わかりやすく言い換えるならば、「unreliable(アンリライアブル)」という英単語がそのイメージにピタッと当てはまります。「寄りかかる(reliable)ことができない(un)」という意味です。
 
 親というのは本来、子どもが安心して寄りかかれる「よるべ」となる存在です。しかし、虐待を受けている子どもの場合、「よるべ」となるべき親との対象関係が築けないことで、「よるべなき状態」に置かれ続けることになります。

 

「羨望」と「嫉妬」 関係性のちがい

 
 その際に生まれてくる感情が「羨望」です。この「羨望」が生起するプロセスを考えることが『絶歌』を読み解く重要なキーになると考えています。これは僕が考えたものでもなんでもなくて、オーストリアの精神科医メラニー・クラインが「羨望と感謝」という論文のなかで指摘していることにヒントを得ています。「羨望」と似た言葉に「嫉妬」という言葉がありますが、両者には決定的なちがいがあります。「羨望」は二者関係、「嫉妬」は三者関係のなかで起きる感情なんです。
 
 二者関係の代表的なものの一つに母子関係が挙げられます。元少年Aは『絶歌』のなかで、小学5年生のときの祖母の死により問題が噴出したと書いていますが、「羨望」という切り口によって、その主張を解体できるわけです。そんな事件と近い時期の出来事じゃなくて、もっと時間をさかのぼって考えなければいけない問題だと、元少年A自身に再提案ができるわけです。
 
 クラインは「羨望」について「自分以外の人が、何か望ましいものをわが物としていて、それを楽しんでいることへの怒りの感情であり、羨望による衝動はそれを奪い取るか損なってしまうことにある。さらに羨望は他の一人の人物に対する関係であって、初期の母親との独占的な関係にまでさかのぼりうるもの」と説明しています。つまり、初期の母子関係にまでさかのぼることができるというわけです。
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