
液状化社会のなかで
前回に引き続き、中島浩籌さんのインタビューを掲載する。
――社会の変化も大きいように思いますが?
リキッドモダニティ=液状化する社会(ジークムント・バウマン)と言われるように、いまの社会はとても流動的で、一貫した自己を生きるのは無理ですよね。技術も組織も、変化が激しく流動的で、学校で身につけた知識が一生、役立つということは少なくなっている。そういう社会では、ゆるぎないアイデンティティを持つより、その都度、しなやかに変化することが求められている。
ですから心理療法も、確固たる内面を確立するために深層心理を探るのではなく、表層の認知や行動・習慣を変化させて、有効な解決を探るようになっていると言えます。ある意味では、心を"モノ化”しているとも言われています。
かつてのように、芯のある自己、内面をもって生きていくことが難しくなっているのは確かです。僕らの時代は、コロコロ変わるのは"日和見主義”と批判されましたが(笑)、芯がなくて生きるのも、それはそれでいいと思います。でも、そうかんたんには生きられない部分がある。
それと、やっぱりそこで「健全」という枠組みに回収されてしまっている。東京都が「すこやかでしなやかな自己の形成を」(東京都青少年非行問題対策委員会、1982)という報告書を出していますが、「しなやかに不健全」でもいいんじゃないか。
――知人が「人間には愚かなことをする権利がある」って息巻いてました(笑)。
予防的なまなざし、医療のまなざしが広がっていますよね。厚生労働省が出した『こころのバリアフリー宣言』(2004)という文書では、「あなたは絶対に自信がありますか、心の健康に?」と問いかけ、いつも自分の心の状態が不健全でないか、チェックするように促しています。
不登校も、以前のような病気扱いはなくなりましたが、依然、「問題行動」とされていますね。しかも、医療的・心理的なまなざしは、ソフトに細分化して入ってきている。発達障害もその一つだと思いますが、複雑・多様に「病気」にしている。
――そういう意味では、問題が見えづらいですよね。
そうですね。かつてのように一括して、こういう問題で、ここに敵がいるというような構図は見えない。「不登校は個人の問題ではなく社会の問題だ」と言い切っちゃうのも、逆に社会還元的だなと思いますし、むしろ、その社会と個人がどうからんでいるのか、そこにからみたいと思うんですね。そうすると、非常に個々バラバラで、どこでまとまっていけるのかは見えない。不登校も、「発達障害」やセクシュアリティの問題、貧困問題など、さまざまな問題と重なり合っていて、ひとくくりにはできない。そういう意味では、たしかに難しいですが、そこで提起されている問題は、むしろ問いが深まっていておもしろいし、そこからやるしかないんじゃないかと思います。広い意味での葛藤というか闘いがある。
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