連載「不登校50年証言プロジェクト」
藤野興一さんは、1976年に児童養護施設「鳥取こども学園」の児童指導員になった。そのときに、はじめて引き受けた子どもが不登校の子だった。当時は、不登校に対する知識もなかった。彼から、不登校について徹底的に学んだという。
インタビューでは、「鳥取こども学園」とご自身について、情緒障害児短期治療施設(以下、情短施設)併設にいたるまで、不登校と養護施設および情短施設、これからの情短施設についてなどをうかがった。
「鳥取こども学園」は、78年に高校全入運動を掲げる。当時、養護施設では、成績優秀な子どもだけが高校へ入学、ほとんどの子は中卒後すぐに就職。しかし、困難さを抱える子こそ「高校へ入学し、施設でめんどうをみるべき」だと藤野さんたちは考えた。当時は校内暴力全盛の時代、問われたのは、全面受容だった。藤野さんたちの施設でも、難しい状況やたいへんな状況の子が多かったそうだが、「職員が鍛えられていった」と藤野さんは言う。
その後、全国的に、養護施設に入所すると学校に行く傾向が見られると、今度は「不登校治療の場」として養護施設が使われるようになっていた。養護施設は集団登校であり、学校に誘い合って行くので、通うようになるからだ。施設から逃げ出し、家へ迎えに行くということもした。児童相談所も、学校に行かずに閉じこもっている子どもを強引に連れてくる時代だった。
ところが、児童養護施設のなかで不登校の子が増えていくと、今度は学校に行っていた子まで行かないということも起きたそうだ。寝室に目張りをして出てこない子や、いろいろな子がいて、住み込み断続勤務が成り立たなかった、という。
藤野さんは、山陽3県の情短施設を見学し、1996年の「鳥取こども学園」創立90周年に向けて、91年に情短施設の併設を理事会に提案した。91年に厚生労働省から、不登校・ひきこもり児童強化施設の指定を受け、94年に情短施設「鳥取子ども学園希望館」を開設、分校も併設した。また、「てくてく」というフリースペースもつくった。
情短施設は、不登校の子どもを矯正する施設ではないと、藤野さんは言う。不登校が問題なのではなく、その子が抱えている問題が問題なのだと。気づきのきっかけになったのは、ある子どもとの経験だった。中学2年生まで、ずっと不登校であった子が、高校へ進学することになり、入学後1日も休まずに通学するようになった。しかし、高校へ入学したとたんに、すさまじい摂食障害になって、たいへんな状況に陥ってまった。施設には、かなりのトラウマを抱えた子が来ている。その後、施設では、職員が不登校に関するすべての本を分担して読んでレクチャーし、みんなで共有した。
現在の情短施設は、虐待の問題と発達障害への対応が中心になっている。社会的養護の課題は、施設の小規模化、生活単位を小規模化していくことで、個別のケアを徹底していくことだ。集団でみようとすると、どうしても管理になってしまう。職員はたいへんだが、子どもたちにとっては「小規模化のほうがいい」と藤野さんは言う。発達障害への対応についても、一人ひとり、ていねいに組み立てていかないとできない。だから、ますます小規模の生活単位でないとできない。
「鳥取こども学園」は、生活型の情短施設にしようと考えているそうだ。治療ではなく「養育」の概念でやっていきたい。人間の持つ自然治癒力を大切にしていく。それは、子どもの持つ力を信じることだというお話であった。(増田良枝)
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