無着成恭さんは、敗戦後の混乱と貧困のなかで、国家主義教育とは決別した民主主義教育の新しい実践をつくり出した教師として知られた方です。とりわけ、子ども自身が、自分の生活や家族の暮らしを見つめ、文に書き綴っていく「生活綴方」を核とする教育は『山びこ学校』という本として出版され、その舞台であった山形県の寒村の山元中学校は全国の注目を集めました。そして方向性を模索していた多くの教員に影響を与えました。
 
 1963年に教員になった私もその一人で、文で表現すること、それを皆で読みあい、なぜだろうと考えあう授業に力をいれてきました。
 
 無着さんは、その後、お寺の息子さんとして仏教を大学で学ばれ、もう少し子どもたちとやっていきたいとの気持ちから、東京の明星学園で働くことになります。民間教育研究運動の中心メンバーとして「学ぶとは何か」を問いながら新しい実践を展開していく研究会を開催、そこに私が参加し始めたのが出会いとなりました。また当時担当しておられた「TBS子ども電話相談室」をお手伝いすることにもなりました。
 
 1980年代、受験競争の波が押し寄せるなかで、明星学園の中心メンバーだった教員や親が「自由の森学園」を開校、無着さんも準備に加わります。しかし「教育はもういいかな」と思い、お寺の住職になられます。「自由の森学園」開校と、私が教員を辞めて学校外の居場所・学び場である東京シューレを開設したのは同じ年の1985年となりました。
 無着さんが住職をしていた千葉のお寺に、東京シューレの子どもたちと2回訪問しました。
 
 食べる箸も、いれる食器も、お寺の裏の竹やぶの竹を切り、自分でつくって食べるのです。ご飯も自分で炊いて食べる。雑巾がけや座禅など、無着さんとの話も含め、子どもたちにはおもしろかったようです。
 
 20年くらいお会いしてないうち、びっくりする再会の縁がありました。東京シューレの会員の子のお母さんが、無着さんが教師時代の最後の教え子だとわかりました。その方が同窓会で、九州は別府にいる無着さんと会ってきたという話を聞き、そんなふうに戦後の教育をある部分担ってきた無着さんが不登校について、どう出会ってきたか、どう見ているか、もしかして古いお話も聞けるのではないか、とインタビューのお願いをしました。
 
 無着さんは御年90歳、奥様の療養と介護のために別府に住んでおられました。ひさしぶりにお会いしましたが、無着さんらしさはちっとも変わっておられず、笑いまくりながらの教育談義となりました。
 
 親から働かせられるために長期欠席をしていた子はいるが、今でいう不登校は見かけなかったという話、日本の不登校の子が増えたのは「学校がおもしろくないからでしょう」とズバリ発言されています。国家が思い通りの人間につくりあげようというシステムがあるかぎり、登校拒否は増え続ける、そんな話に共感しながらの2時間でした。インタビュー本文は下記サイトから。ぜひご覧ください。(奥地圭子)

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