不登校新聞

456号 2017/4/15

不登校の親に「はい、さよなら」はできない 【不登校50年/公開】

2017年09月16日 12:23 by shiko


連載「不登校50年証言プロジェクト」

 

 山田廣子さんは1990年から山口県下関市で親の会をやっておられる。
 
 インタビュー当日、駅までご自身の運転で迎えに来てくださり、奥地圭子さん、私、「登校拒否」を考える会の事務局でシューレのスタッフであり、本紙の発送をずっと担当してくださった山口さんの3人でうかがった。ご自宅に到着すると、たいへんなごちそうが所狭しとならんでいた。全部、長年市場に勤められていた山田さんがつくってくださったものだ。「まるで料亭みたいだ」と私たちは到着するなりごちそうに舌鼓を打つことになった。娘さんも本紙読者でいてくださっているそうで、お鍋を準備してくださったり、お茶をいれてくださったり、ときおり話に入ってくださったりと、とても楽しいひとときであった。母娘お二人の心づかいが、何とも温かくうれしかった。そもそも山田さんが、親の会をつくるきっかけとなったのは、1986年ごろからの息子さんの不登校。高校に入学して、5月連休明けから不登校となった。行かなくなった理由もわからなかった。まわりには不登校の子どももいなかった。ご主人は船に乗る仕事で、1年間は海の上、その後2カ月間は家にはいるものの、また船へという生活。山田さんにとっては孤独で、不安だったが、救いだったのは、ご主人が一度も山田さんのことを責めなかったことだそうだ。
 
 不登校の講演会に参加したのがきっかけで、下関にも親の会をつくることなった。当時、山下英三郎さんの書かれた『虹を見るために――不登校児たちの伴走者として』(黎明書房)という本を読んでいて、そのあとがきにこう書いてあったんです。
 
「学校へ行かない(行けない)ということを、一人で雨に打たれているように感じる子どもたちがいるとすれば、私はとりあえず、一緒に雨に打たれてみたい。そして、共に虹を見るために歩み続けたい。
(中略)
 晴れた日ばかりでは、虹を見ることはできない。厳しい季節のあとには、色彩に満ち溢れた春の訪れがある。つらいことや苦しみを味わうことによって、私たちは優しさや思いやりを身につけることもできる。だから、私は進んで雨に打たれよう。雨の後に、虹が見えることを信じているから……」(『虹を見るために――不登校児たちの伴走者として』)
 
 「これだ」と直感、「虹の会」と名づけたと話してくださった。会を始めた当初は「登校拒否を乗り切る会」だったそうだから、名前を変えてほんとうによかったと思う。断然こちらのほうがいい。
 
 親の会の最初の10年間は、山田さんのご自宅で行なっていた。私たちが、お食事をいただき、お話をうかがった、まさにこの部屋で行ない、親といっしょに来た子どもたちは、2階でマンガを読んだりして遊んでいたそうだ。100名近い会員がいて、集まりには20人来ていたというのだから驚きだ。この山田さんの自宅は、多くの人の支えであり、居場所であり、語り合いの場、遊びの場としてフル活動していたのだろう。
 
 お子さんが不登校で悩み苦しんでいたときに、関門海峡に身を投げようと思ったときもあったそうだ。「そんな苦しみを経験して、自分の子が不登校じゃなくなったからって、じゃあ『はい、さようなら』は絶対にできないと思ったの」と話してくださった。こういうあり方が、親の会の強さだと思った。
 
 近く公開されるインタビュー本編には、山田さんの息子さんの核心を突くさまざまな発言、大人になってどう進路を歩んでいったかという話も掲載する。ぜひご一読ください。(木村砂織)
 
インタビュー本編はこちら

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