不登校新聞

456号 2017/4/15

不登校の親に「はい、さよなら」はできない 【不登校50年/公開】

2017年06月12日 11:52 by kito-shin


連載「不登校50年証言プロジェクト」


 山田廣子さんは1990年から山口県下関市で親の会をやっておられる。
 
 インタビュー当日、駅までご自身の運転で迎えに来てくださり、奥地圭子さん、私、「登校拒否」を考える会の事務局でシューレのスタッフであり、本紙の発送をずっと担当してくださった山口さんの3人でうかがった。ご自宅に到着すると、たいへんなごちそうが所狭しとならんでいた。全部、長年市場に勤められていた山田さんがつくってくださったものだ。「まるで料亭みたいだ」と私たちは到着するなりごちそうに舌鼓を打つことになった。娘さんも本紙読者でいてくださっているそうで、お鍋を準備してくださったり、お茶をいれてくださったり、ときおり話に入ってくださったりと、とても楽しいひとときであった。母娘お二人の心づかいが、何とも温かくうれしかった。そもそも山田さんが、親の会をつくるきっかけとなったのは、1986年ごろからの息子さんの不登校。高校に入学して、5月連休明けから不登校となった。行かなくなった理由もわからなかった。まわりには不登校の子どももいなかった。ご主人は船に乗る仕事で、1年間は海の上、その後2カ月間は家にはいるものの、また船へという生活。山田さんにとっては孤独で、不安だったが、救いだったのは、ご主人が一度も山田さんのことを責めなかったことだそうだ。
 
虹が架かるそのときまで
 
 不登校の講演会に参加したのがきっかけで、下関にも親の会をつくることなった。当時、山下英三郎さんの書かれた『虹を見るために』という本を読んでいて、そのあとがきの「不登校の子どもたちは嵐や雨風に打たれてたいへんな状況を生きて、嵐がやんだときにパーッと虹が架かって穏やかになる。嵐のときはたいへんだけれど、きっと穏やかなときが来る」というようなことが書かれていたのを読み、「これだ」と直感、「虹の会」と名づけたと話してくださった。会を始めた当初は「登校拒否を乗り切る会」だったそうだから、名前を変えてほんとうによかったと思う。断然こちらのほうがいい。
 
 親の会の最初の10年間は、山田さんのご自宅で行なっていた。私たちが、お食事をいただき、お話をうかがった、まさにこの部屋で行ない、親といっしょに来た子どもたちは、2階でマンガを読んだりして遊んでいたそうだ。100名近い会員がいて、集まりには20人来ていたというのだから驚きだ。この山田さんの自宅は、多くの人の支えであり、居場所であり、語り合いの場、遊びの場としてフル活動していたのだろう。
 
 お子さんが不登校で悩み苦しんでいたときに、関門海峡に身を投げようと思ったときもあったそうだ。「そんな苦しみを経験して、自分の子が不登校じゃなくなったからって、じゃあ『はい、さようなら』は絶対にできないと思ったの」と話してくださった。こういうあり方が、親の会の強さだと思った。
 
 近く公開されるインタビュー本編には、山田さんの息子さんの核心を突くさまざまな発言、大人になってどう進路を歩んでいったかという話も掲載する。ぜひご一読ください。(木村砂織)
 
インタビュー本編はこちら

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