私が小学生だったとき、毎月のお小遣いは500円。私がちびちび使う一方、「宵越しの銭は持たない主義」の弟は、もらった日にパパッと使ってしまいます。「ダメよ~」と横目で見ていると、父と何か話している。そして弟の手にはキラリと光る100円玉。「その手があったか」と、歯を食いしばったのをおぼえています。
必要なの? いくらなら?
「不登校を理由にお小遣いをカットされた」なんていう話をしばしば聞きます。なかには「洗い物をしたら50円」や「塾に行くならお小遣いを復活します」といった、交換条件を提示された子もいました。
今号の書籍紹介で紹介している岡本圭太さんは、若者サポートステーションのスタッフを長年続けてこられました。岡本さんの元にも「おこづかいはあげたほうがよいのか否か。もしあげるとしたら、いくらか?」という相談がしばしば寄せられるそうです。
これに対し、岡本さんは「お金がなければ働き出すだろう」と考えての「兵糧攻め」は逆効果だと断言します。
お金がなければ、電車やバスにも乗れないし、飲食もできないから人にも合わなくなるし、どうせ何も買えないので買い物にも出ない。結果、それまでよりもさらに深くひきこもる、と。
これは不登校にも通じる話だと思います。たとえば、子どもに大人気のカードゲーム。遊戯王やデュエルモンスターなどは、誰かと対戦できるシステムになっており、全国各地で大小のイベントが開催されています。カードをそろえないと対戦できませんし、そのためにはお金もかかります。
そんなとき、不登校を理由にお小遣いがカットされてしまったらどうなるか。「何かと引き換えに」という交換条件を飲むかもしれません。しかし、これでは、お小遣いが罰を受けることの代償のようになってしまいます。補足ですが、お小遣いの金額は各ご家庭の状況によってでかまいません。わが家の経済状況は、子どもも何となく肌でわかっていることもありますから。
"好き”を支える
親のなかに「不登校は甘え」という考えがあると、えてして「お小遣いカット」という方向に動いてしまいがちです。しかし、考えていただきたいのは、お小遣いがあることそのものの意味です。「自分の好きなことを、できる範囲で追求できる余裕がある」ということ。しかも、それは学校に行く行かないという事情はまったく関係ない。これは、子どもが再び動き出すためには欠かせないガソリンです。好きなことのためには、大人が目を見張るくらい、子どもは自ら活発に動きます。
また、「自分の好きなことを親が下支えしてくれた」という実感も大事です。すぐには伝わらないかもしれませんが、子どもが元気になったとき、その気づきは何物にも代えがたい親への信頼につながるものだと私は思います。(東京編集局・小熊広宣)
読者コメント