中沢たえ子さんは児童精神科医の草分けの一人であり、1960年発表の論文「学校恐怖症の研究」の執筆者としても有名です(執筆者名は旧姓の鷲見たえ子)。学校恐怖症は登校拒否より前に使われることの多かった言葉です。論文は学校恐怖症に関する初のまとまった論文として注目され、現在に至るまで引用されることが多いです。
中沢たえ子さんは1926年、神戸市にお生まれになり、戦争中に東京女子医専に入学。戦後に卒業され、名古屋大学医学部精神医学教室にて児童精神医学を専攻されました。当時の日本では児童精神医学はまだまだこれからの学問で「最先端を知りたいと思ったらアメリカに行くしかなかった」という状況だったそうです。
そのため実際に自閉症の子とも出会っていましたが、より深く学ぶためにアメリカ留学を決意し、英語の勉強を始められました。しかし、当時、留学することはたいへんなことで、かんたんには実現できません。そこで、中沢さんは「手当たりしだいにアメリカの国立精神衛生研究所あたりに手紙を出しましてね。子どもの精神医学をやりたい。どこか私にフェローシップをくれないかと」と訴え、そのことが功を奏して、1955年から3年間ボストンに留学されました。ボストンでは当時アメリカで主流だった精神分析学を中心に学ばれました。
そして、帰国後の1958年、乞われて国立精神衛生研究所に勤務され、研究所の1年目に学会へ「幼年性精神病の臨床的研究」という論文を出され、その後、件の論文を60年に発表されました。
この論文以降、学校恐怖症という言葉が使われるようになります。そのいきさつについて、以下のように語られています。
「学校恐怖症はどなたが訳されましたか?」(取材者)。
「たぶん、私です。学校恐怖症は英語のスクールフォビアの翻訳なんです」(中沢)。
1960年の論文では学校恐怖症という言葉と登校拒否という言葉の両方が使われています。そのことについては「いいえ、使い分けはしていません。混ぜこぜになっているんです。ただ、school phobiaという言葉はきわめて精神医学的な表現であって、行動を表現しているわけではありませんね。phobia(恐怖症)と言うときには、私なりに精神分析学的な心理的メカニズムが頭にあるわけですが、行動上としては登校拒否という言葉を使ったんだと思います」。その登校拒否の使い始めについては以下のように語られました。
「登校拒否という用語を最初に使われた方は誰だったのでしょうか?」(取材者)
「私だけじゃなくて、仲間の連中が何となく使っていたんじゃないかと思います」(中沢)
「少なくとも初めのお一人ではあると?」(取材者)
「そうです。はい」(中沢)。
中沢さんは2年ほどで結婚を機に国立精神衛生研究所を退職。71年には個人で児童精神科のクリニックを開院し、場所を移しながら昨年まで半世紀近く続けていました。不登校の子どもとの付き合いは60年近く。日本における「不登校の歴史」を児童精神科医として見られてきたお話には貴重な証言が多く含まれていました。(シューレ大学スタッフ・朝倉景樹)
中沢たえ子さんさんへのインタビュー本文はこちら
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