連載「不登校50年証言プロジェクト」
北村小夜さん(92歳)は、特殊学級の教員をしながら、障害児を分ける教育はおかしいと感じ、「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の活動などをされてきた。障害児教育の問題と不登校の問題は、同じ学校から排除された問題でありながら、すれちがってきた面もある。本プロジェクトでも、その点はさまざまな方にうかがってきた(小沢牧子さん、石川憲彦さん、中島浩籌さん、など)。そして、いつもそこで浮かび上がってくるのは、北村小夜さんのお名前だった。ぜひ、お話をうかがわねばと思い、インタビューにうかがったのだが、本題以前に、まず個人史からして、北村さんはムチャクチャおもしろかった。
軍国少女だった子ども時代、女学校を出たあとは満州で従軍看護婦に。満州で敗戦を迎え、なりゆきで八路軍(中国共産党の人民解放軍)に1年間従軍。八路軍では、関東軍とちがって食糧が平等に分けられていて、平等に分けられていれば1日におかゆ1杯でも飢餓感は感じず、餓えは量の問題じゃないと思った、という。そして帰国後、東京でエロ本の絵師をしていたが、ピンハネされているにちがいないと思って、出版社に直接交渉しに行ったら、それが問題になってクビに。そこでどうしようかとなって、「教員にでもなるか」と思ったそうだ。まさか、北村さんがエロ本絵師だったとは存じあげず、いただいていた、おいしいお茶を吹き出しそうになってしまった。
教員になられたのは1950年。当時、学校には空襲で焼け出された人も住んでいて、地下には遺体もある状況。近くには木場で働いている水上生活者もいて、その子どもたちのための水上学校もあった。みんな風呂もろくに入れない状況で、授業中、都営浴場のエントツから煙が出ているのを子どもが見つけると、みんなで入りにいったそうだ。まだ、学習指導要領が「試案」で「基準」ではなかった時代、教師は子どもと相談して自由にできたという。
シャバなんだ
学習指導要領が基準となったのは1958年、この年にすべてが変わったと、北村さんは言う。学習指導要領が基準になると、その基準についていけない子が出てくる。また、勤務評定が実施されるようになり、教員が上からの評価を気にして教えるようになる。就学時健診が始まって、知能検査で子どもが分けられるようになった。そして、学校に行かない子が問題にされ、児童相談所や病院につれてこられるようになるのも、このころのことだ。その後、日本は高度経済成長に入っていく……。
子どもを分けるまなざしは、どこから来ているのか。そして、それとどう対峙していくのか。北村さんは「シャバ」で生きることにこだわり、「ふつうは、いいところじゃない。シャバなんだ」という。問題含みでも、ほかに「いいところ」を探すのではなく、シャバに生きること。不登校の観点からすると、異論もあることと思うが、ここには、考えるべき点が深くあるように思う。詳細は、本編サイトにて。(本紙理事・プロジェクト統括/山下耕平)
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