不登校新聞

466号 2017/9/15

不登校からの青春問題 「リア充はくだらねぇと言ってもムダ」説

2017年09月29日 12:54 by kito-shin
2017年09月29日 12:54 by kito-shin



連載「仮説なんですが…」vol.7

 いつからか私は「青春」という言葉やそれを彷彿とするものを前にしたとき、得も言われぬ「疼き」を覚えるようになった。理由は至極明快で、青春がなかったからに、ほかならない。そもそも青春というのは学校との親和性が非常に高く、学校へ行っていることが青春を得るための前提のようにも思える。よって小学校1年生で不登校をし、その後、ひきこもった私には、青春など得られるはずもないと感じていた。この欠落感は、「世の中の多くの人は経験しているのに自分にはなかった」という相対的剥奪感も伴い、青春経験のなかった私は「人として劣っている」という思いにまで及んでしまうこととなった。

 以前、青春が放つ圧倒的な圧力から逃れるため私は無意識下に「願い下げ処理」というものをしていた。これは青春的なるものやそれに属する人々を「薄っぺらい」「青臭い」「バカっぽい」など、総じて低俗で幼稚であるとみなし、「そんなものはこちらから願い下げである」と自ら突っぱね、自分を保つ方法であった。実際には望んでも手に入らないという現実や思いが先なのだが、それでは自分が惨めになる。

 そのため、当時はそのような自覚もなく、あくまでも青春は無用の産物で、そこに憧憬などは存在しないのだと整理していた。しかし、10代のころにはたしかに成り立っていた「願い下げ処理」も、年を重ねるなかでしだいに破綻をきたしていった。「青春」というものへ「疼き」を覚える自分に気づき、その裏には青春への激しい渇望・憧れが存在し、その喪失が自分の価値までも根底から揺るがすほどのことなのだと認めざるを得なくなったのだ。今となれば「願い下げ処理」は問題の保留・先送りでしかなく、対処療法にすぎなかったのだとわかる。それでも、10代の私にはそれしか自尊心やプライド、何より不登校をした自分への正当性を守る方法がなかったのも事実であった。

 不登校によって青春の舞台から蹴落とされるなどというのは、はなはだ理不尽である。実際そう断定するのは早計とも思う。それでも青春という言葉が存在し、またそれが学校とセットで想起されがちな事柄であるかぎり、不登校・ひきこもり経験者にとって、言わば「ロスト青春問題」は一定以上の切実さをもって存在しているだろう。

 現段階では確たる対案はない。しかし、世間の価値をただ否定するのでも、世間に準拠して自分の首を絞めるのでもなく、自分の内側から感じる「疼き」を出発点に、本来無二である「私と青春」の望ましい帰結点を模索していくしかない、という仮説に至っている。(当事者研究/シューレ大学・平井渚)

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