無職の息子に向かって、父親が強めの皮肉を言う。
「昔の親は子に食わせて貰ったのに、今の親は子に食われる丈だ」(『こころ』)。
耳に痛いこの言葉は、つい最近、私が言われたような気もするが、実際には100年以上前のものだ。書いたのは『吾輩は猫である』などの作家、夏目漱石。1867年に生まれ1916年に亡くなった。2017年は生誕150年の節目にあたっていた。
夏目漱石といえば、国語の教科書に出てくるほどの定番の大作家で、昔は1000円札の顔にもなっていた。難しい小説を書いた、えらそうな文学者に思えるが、ニートやひきこもりなど、現代的な苦しみを味わった人である。
私は漱石を読むまで、昔は無業者へのバッシングが弱いものだと思っていた。落語の世界では、ふだん何をしているのかわからない「与太者」がいくらでも出てくるし、「寅さん」など古い映画でも、ニートが肯定的に描かれている場面がある。平日にウロついていても大丈夫そうなのだ。しかし漱石の本を開くと、明治の人々はニートをわりとボロクソに言っている。
主人公はニート
ニートへのバッシング小説の筆頭となるのは『それから』である。主人公の30歳の男、代助は、文化的にすごしてはいるが定職に就いておらず、世間から強い風当たりを受ける。
聞こえてくるうわさ話は「いいつもりだなあ。僕も、あんな風に一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったりして暮らしたいな」と、トゲがある。
結婚も就職もしている友人は言う。「君は金に不自由しないからいけない。生活に困らないから、働く気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから」としんらつだ。
なかでも一番うるさいのが父親である。
「三十になって遊民として、のらくらしているのは、如何にも不体裁だな」と、世間体の悪さを批判して、結婚も就職もしろと言うのだ。さらに父親は「そりゃ今は昔と違うから、独身も本人の随意だけれども」と言いつつ「三十になって、普通のものが結婚をしなければ、世間では何と思うか大抵わかるだろう」と、100年前も今と変わらないことを言っている。
私にとって、作品のハイライトは(物語の本筋とは別だが)、父親から「ニート終結宣告」が出されたところだ。父からの宣告に代助は思い悩む。
「彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業という文字があるだけで、職業その物は体を具えて現れて来なかった」。
働いてこなかったために、具体的な労働が想像できない。代助は何とか自分の望む生き方をしたいと考えるのだが、親友までバッシングしてくる。
「君だって、もう大抵世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」。親友だというのにひどいではないか。しかし、漱石の描くニートは批判されるだけでは終わらない。社会に出ろという言葉に対して、真っ向から抗弁する。
「世の中へは昔から出ているさ。(中略)ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」。
代助は世間を気にして生きるよりも、自分らしく生きることを選び、最後に決断をする。世の中とズレていようとも、自分の生き方をいかに貫くか。『それから』の物語は、就労においても恋愛においても、集団主義を打ち破る強い決断を描いたものだ。
小説以外にも、講演録の『私の個人主義』がとくにすばらしいのだが、漱石の悩み苦しんだテーマは、今を生きている私に刺さる言葉をくれる。退屈な国語の時間に読まされる『坊ちゃん』の作家ではないのだ。生誕150年、偉大で神経衰弱経験者の作家、夏目漱石は侮れない。
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