不登校新聞

478号 2018/3/15

母は希望会、70年代の登校拒否当事者に聞く【不登校50年/公開】

2018年03月12日 12:50 by kito-shin



連載「不登校50年証言プロジェクト」

 この「不登校50年証言プロジェクト」を始めようという企画を立てたころ、私は、まず「希望会」で出会った当事者の方々に、1970年代ごろの不登校の状況を聞いてみたいと思った。私は、自分の子の登校拒否で、国立国府台病院の児童精神科医長をなさっていた渡辺位さんに出会い、目のウロコをとられたのであるが、渡辺位さんのもとにあった登校拒否の親の会が「希望会」である。そこでの学びが、「登校拒否を考える会」や「東京シューレ」の土台になっている重要な会なのだが、何人か連絡のつく人がいてもインタビューの引き受け手がいなかった。

 ところが、今年のお正月、その希望会の関係者とつながりが生まれ、あれよ、あれよというまに、インタビューに登場いただくことになったのが、今回、登場いただく田中達也さんである。

 田中達也さんの母親の田中英子さんは、私が希望会にいたころ、先輩格のお母さんで、会長もなさり、また、希望会が10周年を迎え、記念に出版を考え、渡辺位さん監修のもと『登校拒否・学校に行かないで生きる』(83年・太郎次郎社刊)を出したのだが、その本もいっしょにつくった仲だった。今は、年賀状を出すだけになっていたが、新年を迎え何日か経ったころ、「母が亡くなった」というお電話を達也さんからいただいたのだった。昔のよもやま話のあと、インタビューの話を持ち出した私に、達也さんは快く承諾してくださって、今回の登場となった。

国府台病院へ

 達也さんは、千葉県市川市育ちで、小学5年~6年ごろに集団いじめにあっている。1970年代のなかばごろで、当時の進学競争はすさまじく、進学組は1点でもいい点をとるために進学塾に通い、受験対策がたいへんだった。達也さんは毎日泥だらけになって自由に遊びまわる子どもたちの代表格で、進学組から言うとうらやましかったのではないか、と言う。しかし、学校に行けなくなってしまい、当時は大問題で、病院では脳波をとられたり、相談所やいろんなところをまわったうえで、教育研究所から国府台病院につながったとのことである。

 渡辺位さんに会ったときは、親も子も学校は行かねばならないところと考えていたので、渡辺さんから「学校って行かなくてはいけないの?」と聞かれて、しばられていた自分に気がついていかれたようだ。当時の小学校の対応は最悪で「学校へ来れないとか、たまったもんじゃない、精神科へ行け!」と言われたという。

 中2のころ、国府台病院の36病棟(児童精神科病棟)に自分から希望して入院、まずやったのが趣味の無線。渡辺先生は、子どもがやりたいということはできるだけやらしてくれたそうだ。16歳からは病院で働きながら、定時制高校に通い、看護助手、鍼灸師、リハビリの仕事などに携わり、今、社会福祉士専門職として働いている。「世の中スキルアップできる人ばかりじゃないよ。スキルアップできない人も含めて世の中なんだよ」という母親の言葉をいつも胸に置いておきたいそうだ。歴史を感じるインタビューだった。(同プロジェクト関東チーム委員)

■「不登校50年証言プロジェクト」#34 田中達也さん
http://futoko50.sblo.jp/article/182548916.html

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