不登校新聞

482号 2018/5/15

だまされて牧場へ置き去りに【不登校50年/公開】

2018年05月14日 17:20 by kito-shin



連載「不登校50年証言プロジェクト」

 不登校の当事者と言っても、その経験はさまざまであろう。今回、登場いただいた倉地透さんは、「登校拒否を治す」という名目で親から引き離して厳しい生活をさせるように、との専門家のアドバイスから、北海道の牧場にあずけられる、という目にあった人である。もちろん、本人は朝も起きられず、外に出るのも怖い状態であったため北海道行きをOKするわけがない。そこでお父さんは倉地さんをだまして連れて行くのである。

 ちょうど今ごろ、5月の連休中、馬好きの倉地さんに「北海道の牧場に馬を見に行こう」とお父さんが誘った。いつも学校へ行かそうとして怖い父親の優しさや、数日間の旅行だというのに母親が駅まで送りにくるのも、倉地さんはおかしいとは思ったが、よもやそんなことになるとは知る由もない。

 羽田から千歳へ。千歳から車で何時間もかかって到着した牧場で「お前、馬、見てこいよ」と言われ、喜んで広い牧場をまわった。

 ふと気がつくと乗ってきた車が帰る方向へと走っていく。あわてて倉地さんは牧場主に「お父さんは?」と聞くと「君は学校へ行ってないんだろ。毎朝、ここで馬小屋の掃除をして」と告げられ、自分が置き去りにされたことを知る。そのとき、倉地さんは中学2年生。それがどれほどの衝撃だったか。それは、その後の彼の親、なかんずく父親へ向けられた怒りからもわかる。

 80年代は、戸塚ヨットスクールもあり、不動塾もあり、仏祥庵もあり、「登校拒否を怠け」と捉え、鍛え直す発想から学校へ行けない、行かない子を人権侵害まがいのところへ入れて、矯正する考え方が広く容認されていた。まだ、山村留学も大流行の時代で、他人の飯を食わせ、その村の学校へ通い、親に甘える環境を変えるのも有効とされていた。倉地さんが牧場へ本人の意思とは関係なくあずけられたのも、その流れの一つとも言えるが、本人からすれば、たまったものではない。そのままあきらめる子もいるだろうが、倉地さんは、しばらくして脱走する。馬のお産のあった翌朝は牧場主夫婦の起床が遅くなるのを発見し、明け方、決行する。どうにか空港へたどり着き、父親を千歳空港まで迎えに来させたのだ。聞いていてハラハラドキドキであった。

 東京へ戻って彼は荒れる。父親とはいっしょに暮らさず、おばさんの家で暮らした。そのおばさんが「東京シューレ」を見つけ、初期の東京シューレに彼はやってきた。中3から17歳まで会員でいて、18歳から縫製工場で働き、20歳で職場結婚している。80年代当時は、不登校した子が進学する例は少なく、まず社会に出て、必要だったら学ぶというかたちが多かった。倉地さんも23歳で工務店に入り、建築士の資格を取るため働きながら夜と日曜日、専門学校へ通い、27歳で免許取得。その後、独立して建築会社を立ち上げ、いまは取締役の社長である。

 社会が無理解な時代を生き抜いてきた体験から突きつけられるものは大きい。(本プロジェクト関東チーム委員)

「不登校50年」 #38 倉地透さん
http://futoko50.sblo.jp/article/183146327.html

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