不登校新聞

483号 2018/6/1

駒﨑亮太さんに聞く【不登校50年/公開】

2018年05月31日 10:35 by kito-shin



連載「不登校50年証言プロジェクト」

 駒﨑亮太さんは神奈川県鎌倉市で生まれ、東京大学在籍中の1960年代後半の全共闘運動から(本人の言葉によれば「逃亡」し)「影響」を受けた。その後、全日制高校の教諭を経て、1983年に湘南高校通信制に着任。このインタビューで駒﨑さんは、「登校拒否」をしていた子どもたちのみならず、70~80年代にとりわけ問題とされた管理教育の問題や、管理教育いかんにかかわらない教育そのものの持つ問題について語られた。

多様な人がいた通信制高校

 しかし、80年代のあのころ存在していた(単位制高校ではない)「通信制高校」とは何だったのか。文部科学省のホームページを見ると、「全日制・定時制の高校に通学することができない青少年に対して、通信の方法により高校教育を受ける機会を与える」とある。通信制課程が「全日制・定時制の高校に進学することができない青少年」のための学校であるという意味を、あらためてここで深めたい。

 30年前に不登校もとい「登校拒否」をしていた私は、いまで言うところの「スクールカースト」を「底辺」(あるいは枠外)として経験していたと思う。そして「スクールカースト」が幅を利かせていない学校というものを、通信制高校で初めて経験できた。

 優等生は優等生、地味な人は地味な人どうしでしかつながれないといった多くの現状の学校に対し、通信制高校は学び以上に「出会い」についてもまた可能性を示唆していた。いや、逆に言えば「学び」とは、はたして同じような性格や立場や価値観の人とだけつるむところに存在しうるのだろうかと私は問いたい。あの学校では、年齢もさまざま、優等生だったり、「ツッパッて」いたり、どんくさかったりしても、少なくとも全日制の学校よりはそれぞれの存在が許されていると感じていた。

 また、学ぶペースが3年、4年、あるいは10年以上かかってもOKな場所で、学ぶことの楽しさや意味を感じとることができた。約30年前のあのころ、さまざまな年齢と立場の人が通う「通信制高校」は、学校に行かなくなった/行けなくなった子どもにとってもひとつの選択肢だった。そのようなかたちで「通信制高校」が存在していたということは、「不登校の子ども」のためだけの学校、「10代の子ども」のためだけではない学校が、結果的にではあるにせよ、多くの不登校の子どもにとってホッと一息つく場所となりえたということだ。その意味や可能性について、もう少し私たちは探る必要があったのではないだろうか。現在、多様性が叫ばれる時代だけれど、わたしはあの時代、多様性の気配を通信制に見出していた。

学校の限界と可能性は

 かつての学校は、駒﨑さんが「それまでは、ツッパッているヤツと、生徒会やっているヤツは、すごい仲よかったの」と話しているように、人と人との出会いの可能性を多少なりとも示していたところがあったのだ。また、つながることを強制されなくても、それなりにつながりが生まれたことを、いまどのように捉えたらいいのか、あらためて考えるところだ。

 本プロジェクト全体にも関わることではあるが、歴史を知る必要があるのは、むしろこういうことなのだと思う。学校のかつて持っていた可能性、そして限界の両方を知ることで、本当の意味で未来をつくりあげていくためにも。(本プロジェクト関西チーム委員・栗田隆子)

「不登校50年」 #39 駒﨑亮太さん
http://futoko50.sblo.jp/article/183172658.html

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