不登校新聞

485号 2018/7/1

なぜ学校へ行けない子がいるのか、その根本に広がる社会的錯覚

2018年06月29日 10:56 by shiko

 わが国に学制が敷かれたのは1872年、いまから150年近く前のことです。1世代を25年とすれば、子どもから見て父母、祖父母、曾祖父母……と、学制が敷かれたのは6世代前までにさかのぼります。いまでは「学校」という場は、あたり前のものになっていますが、それでも人間の長い歴史のなかで見れば、150年というのはほんのわずかな期間です。それに、その最初の100年とここ50年とを比べれば、「学校」という場の持つ意味がずいぶんと変わってきました。むかし学校は地域の知的情報の権威で、先生は村や町の名士として周囲から「エライ人」だと思われていました。また、子どもたちにとっても、学校に行かなければ味わえない体験がありました。

特別だった学校

 私が子どもだった60年前には、特別に裕福な家庭をのぞけば、家のなかに本らしい本などはほとんどなく、新学期になると教科書を買ってもらえることが喜びでした。

 学校には図書室があり、一生かかっても読みきれないほどの本が並ぶ特別な空間でした。

 あるいは音楽の好きな子にとっては学校でオルガンやピアノを弾けることはなによりの楽しみでした。

 そういう意味で言えば、いま学校でしか味わえない体験は、同一学年で輪切りにされた集団行動以外に、ほとんどなくなっているのかもしれません。

 文字の習得なども、かつては学校でやるしかありませんでしたから、家の都合で学校に行けなかった子どもは、ほとんど非識字の状態のまま大人になりました。いまは不登校だからといって文字の読み書きができない子どもはほとんどいません。文字に触れる体験がぐんと早くなり、学校に上がるまでに、ほとんどの子どもたちが文字の世界にどっぷり入りこんでいます。なにしろ、ネット空間で遊ぶにしても文字情報が基本ですから。

学校の目的は学力向上?

 一方で、「学校」の周辺に、いまほど「学力向上」とか「学力保障」という言葉が蔓延した時代はありません。小・中・高・大という学校教育制度のはしごを順調に、より高く上れるかどうかが、その人の人生を左右するかのような空気が世の中をおおい、「学校」は学力を競って勝ち残るための手段であるかのようです。

 現に学歴を確保してしまえば、身につけた学力はもう御用済みとばかり、剥げ落ちてもかまわれません。こうした「学力」が世の中を牛耳っているというのは明らかに「錯覚」です。でも、この錯覚の恐ろしいところは、みんなが錯覚すれば、その錯覚が世の中を左右するというところです。

 こうしたなかで、素朴に「どうして勉強しなければならないの?」と言いはじめた子どもにとって、勉強は苦役となり、「学校」はむかしとはちがう意味で「エライ(しんどい)」ところになってしまいます。

 いま「不登校気分」に陥らないことは、親にも子にも難しい。むしろ「不登校」こそ、世間をおおっている錯覚から抜け出すための最大の手立てだと開き直ったほうがいいのかもしれません。私たちは学校の意味をあらためて問う時代を生きているのです。



■執筆者プロフィール
浜田寿美男(はまだ・すみお)1947年生まれ。奈良女子大学名誉教授、著書には『子どもが巣立つということ』(ジャパンマシニスト社)など多数。

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