不登校新聞

486号 2018/7/15

不登校の子どもの権利宣言をつくった二人【不登校50年/公開】

2018年07月13日 17:40 by kito-shin
2018年07月13日 17:40 by kito-shin



連載「不登校50年証言プロジェクト」

 今回は、彦田来留未さんと本田真陸さんに登場いただいた。お二人とも、不登校を体験した当事者であり、フリースクールで育ち、「不登校の子どもの権利宣言」の作成とその後に広める活動に参加したメンバーだ。

 この「不登校50年証言プロジェクト」も登場にかぎりがあるなか、まだまだ歴史の証言として残しておきたい人がたくさんおられ、人選に困るほどだったが、何といっても「不登校の子どもの権利宣言」は欠かせない、と関東チームでは考えたのだった。

 来留未さんは、1989年生まれ、真陸さんは、1994年生まれ。二人が生まれるだいぶ前からフリースクール「東京シューレ」は存在していたが、後にそこで出会って、ともに不登校の子の権利のために活動するようになるとは知る由もない。

 来留未さんは、小4、つまり90年代末の不登校、転校先が学級崩壊で、体はぼろぼろ、気持も苦しく、眠れず、布団のなかで泣いている状態だったそうだ。でも、学校は行かなきゃならない、と思っていたので「行きたい行きたい」と毎日言う。そうすると親はその応援をしなくちゃ、と。行ったり行かなかったりをくり返し、完全に行けなくなって、1年後に東京シューレを見つけ入会。楽しんでいたけれど、半年ぐらい通ったころ疲れてしまい、「ホームシューレ」に変え、家でゆっくりすることに。学校での疲れが出たと感じたそうで、夜突然涙が出てきたり、夢で学校のことを見て泣いて起きたり、たびたびそんなことがあって癒されるまでに何年もかかったという。

 一方で、学校の勉強だけがすべてじゃないと気がつき、家で料理とかお絵描きとか、ギターとかたくさんのことをやり、ホームシューレの合宿で友人もでき、高校からバイト、シューレに通う、心が疲れてできなかったことがどんどんできるようになったという。 

 真陸さんは、自分がハーフで、幼稚園のころから肌の色のちがいや髪の毛のことでからかわれ、小学校でもガマンしてすごしたが、中学で嫌な仇名が広がったり、先生の嫌がらせがあり、先生への不信感が重なり、学校へ行くこと自体がイヤになって不登校が始まった。適応指導教室にも塾にも行かなくなって半年、フリースクールを自分でも調べてみたら、王子シューレのブログにバスケをやっている写真があって「お、ここなら」と思ったのが入会につながったとのこと。

 「不登校の子どもの権利宣言」は、子どもの権利条約の自主講座から始まっている。ユニセフハウスに見学に行った子たちが中心になり1年半も続いていた。そのなかで、自分たちの経験した不登校についても権利を考えてみようということになり、2009年の夏休みは、条文づくりに、朝から夜まで議論して、ついに13条にまとめたのだった。それは、早稲田大学で開催される「全国子ども交流合宿」の子どもたちと全国大会参加の大人計500名の前で満場一致の拍手で採択され、広がっていく。その条文もHPに掲載しているので、ぜひ一読願いたい。

「不登校50年」#42 本田真陸さん、彦田来留未さん

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