不登校新聞

493号 2018/11/1

1970年代に登校拒否、大学准教授に聞く「身を切る痛みから」【公開】

2018年10月31日 17:19 by kito-shin
2018年10月31日 17:19 by kito-shin

 「不登校50年証言プロジェクト」の記事を読んだ方から、自分も70年代に登校拒否をしたので話をしたいとの連絡をいただいた。しかしプロジェクトは完了したため本紙で取材させていただいた。(大阪通信局・山下耕平)

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――友成さんは、1970年代に登校拒否の経験があるそうですね。

 私は1962年生まれで、9歳から3年間をイギリスですごして、中1の6月に帰国、そこで学校に行けなくなりました。1975年のことです。

 友人関係でトラブルがあったのと、いろいろがんばりすぎていたのかもしれません。11月ごろから調子が悪くなって、保健室に行ったり、2月ごろには力つきて、完全に行かなくなりました。

 その後、千葉県流山市に引っ越したんですが、流山の中学校には1日も行きませんでした。

――イギリスとのギャップもあったんでしょうか。

 それも、ありました。イギリスはのんびりしていて、15時半には学校が終わって、週末にも自分の時間がありました。

 しかし、日本は授業時間が長くて、部活もあって、忙しかったですね。それから、テストが多くて、絶えず自分の順位が評価される。数値で測られることが、日本はとても強かったと思います。

――学校に行かなくなって、ご自身や家族は、どういう感じだったんでしょう。

 親は最初は行かせようとしていたと思いますが、こちらは完全に学校を拒否していて、「僕は病気だから病院につれていってくれ」と言ってました。自分に病気というラベルを貼りたかったんですね。

 しかし、いくつか病院に行っても、身体的な病気ではないということで、千葉大の精神科を紹介されて、その後、中3の8月から国府台病院の児童精神科に2カ月ほど入院しました。

――国府台病院の担当医は覚えておられますか?

 高瀬直子先生でした。先生はよかったんですが、入院して最初のころ、消灯時間のあとに騒いでいる子がいて、「静かにしてもらえませんか」と言ったら、ボコボコにされたんですよね。それは今でも覚えてます。

院内学級も通えなくなり

 9月からは院内学級にも通ったんですが、数週間でしんどくなって通えなくなってしまいました。学校から落ちこぼれて、さらに児童精神科からも落ちこぼれたということで、自己否定的になって、あのころが一番しんどかったですね。

 夜だけ外出していましたし、母にあたったり、弟をいじめたりもしました。ガラスを割ったりしたこともありました。それは申し訳なかったですし、自分のなかでも傷になっています。

 ずいぶん後になって、母から「あのころは無理心中を考えていた」と聞きました。

――お父さんは、どうだったんでしょう。

 昭和の父親で、母親を介して話す感じでした。私のほうも父母に申し訳なくて、家にいられなくなり、よく浜松の母の実家に世話になっていました。祖父母は消火器を扱う店をやっていて、その手伝いをさせてもらってました。

 よかったのは、祖父母から「学校に行け」と言われることはまったくなかったんです。祖父は小学校卒で、学歴に頼らずに小さな店を切り盛りしていて、「昇、消火器屋になるか」と言ってくれたりしました。

――その後は、どうされたんでしょう。

 国府台病院の外来で、奥村直史先生のカウンセリングを受けるようになりました。奥村先生には長いこと関わっていただいて、おかげで好転していったんですね。

 中卒認定を取って通信制高校に進学して、その単位と大検で大学受験資格を得て大学に入りました。大学を卒業するまで、2~3カ月に一度は奥村先生のところに通っていました。

 日本の大学院でもつまずいて、お世話になったので、奥村先生には13年ぐらいお世話になりました。

――どういうことから好転されたんでしょう。

 松戸駅から国府台病院まで、ふつうはバスで行くところを歩いて行ったことを、奥村先生にほめてもらったことが、とてもうれしかったんです。

 もうひとつには、叔父から合気道の道場を紹介してもらって、きっかけとしては、このふたつが大きかったですね。その後、映画館に通ったり本屋さんや図書館にもよく通いました。街で補導されたこともあったんですが、めげずに通いました。

 自分ひとりでも通える場所ができて、落ち着いていったように思います。

梶原マンガに支えられた

――友成さんは、マンガ表現やマイノリティの文化表象を研究されているそうですが、当時、マンガに支えられたことはあるんでしょうか。

 おおいにありますね。梶原一騎が好きだったんです。『あしたのジョー』の「あしたのために打つべし」のように、上や先を見ないで、とにかく一歩一歩、今できることをする。そういうスタンスは、自分の財産になってます。

 梶原作品は、男らしさを追求していますし、今となっては批判的に読まないといけないところがありますけれどもね。

――梶原一騎には滅びの美学があるので、サクセスストーリーよりも共感できるかもしれないですね。

 そうですね。破滅の音が聞こえてきちゃうんですよね。そのなかでも、結果ではなく、一歩を踏み出せと。

――大学では何を学ばれたんでしょう。

 上智大学の教育学科に進学したんですが、最初は、大学でも学校は怖かったんですよね。

 電車も、トイレに行きたくなるんじゃないかという強迫観念があって、快速には乗れなかったんです。大人数の教室も苦手でした。トイレ病で、授業中に緊張するとトイレに行きたくなってしまうんです。

 しかし1学期目に、アメリカ人のレックス・バーン教授と出会って、自信になったんです。

 バーン先生に「自分は学校に行けなくなって、セラピストにかかってきたんです」と話したとき、「私も高齢になってから、セラピストにお世話になっている」とおっしゃったんです。

 そのころ先生はまだ60代だったと思うんですが、自分もいろいろ悩んでいるんだと。それで、すごくホッとしたんです。大学の先生でもそうなんだと。そのおかげで、卒業もできたんだと思います。

――その後、ご自身も大学の先生になられたわけですね。

 教育学は途中でやめて、オーストラリアに留学して英文科の修士号をとって、博士論文は、シカゴ大学で日本人の自伝について書きました。

 それは、自分自身、奥村先生と出会って、自分について話すことで、自分を捉え直して、変わることができたという経験があったからです。それで、自分を語ることの社会的意味を問いたいと思ったんです。

 登校拒否の場合でもそうですが、人は自分の居場所をなくしたとき、それを見出せないとき、自分はいったい何者なのかとなりますよね。そこで自分を語っていくことが、自分の居場所・社会をつくり直していくことにもなる。

居場所がなく過剰補償に

 一方で、居場所がないと、過剰補償と言いますか、身体を鍛えるとか、そういう方向に行くこともありますね。女性の場合は拒食症とか。自分自身にもそういう面があると思います。

 日本のマイノリティでも、たとえば格闘技では、プロレスラーの力道山や極真空手の大山倍達は在日コリアンですね。

 大山はマンガ『空手バカ一代』でも描かれていましたが、宮本武蔵にあこがれて、眉毛を剃り落として山にこもるとか、過剰に補償しちゃうんですよね。そういう過剰さと、「男らしさ」とが結びついている。

 なかには、家庭内暴力に行ってしまう人もいる。私自身、登校拒否をして、攻撃的になってしまったことがありました。そうなってしまうと、ヒロイズムや美談ではすまない。

 でも、美談と狂気は紙一重だとも思うんですね。今も、通り魔的な事件が頻繁に起きています。それはいわゆる「健常者」にとっても他人事ではないと思います。どうすればそうならずに済むのか。

――そういう意味でも、暴力ではなく、言葉で自分を表出できることは大事でしょうね。そのあたりで、時代によるちがいは感じますか?

 「草食系男子」という言葉も聞きますし、かつてのような男らしさは求められなくなっているかもしれませんが、居場所をなくすことのフラストレーションは、あまり変わってないと思います。

 落ちこぼれたくやしさ、引け目、身を切るような痛さは、むしろ強くなったりしているし、現在は社会にもっと蔓延しているように思います。

不安、怒り、日米の差は

――日本とアメリカでちがいを感じますか?

 日本のほうが、自己懲罰的かもしれないですね。

 アメリカのほうがアグレッシブで、銃の乱射事件や通り魔的な事件がたくさん起きてます。それと、アメリカでは日本ほど男女差がないかもしれません、つい先日も、女性による銃乱射事件が起きていました。

 しかし落ちこぼれることへの不安・怒りは日本同様に蔓延しています。

 文化表象ということで言うと、日本には少女マンガというジャンルがありますね。あるいはボーイズラブのように、女性がそれに委託して自分を語ることもある。ジェンダーの様相は日米でちがう部分もあると思います。

――かつてとちがって、いまは多くの人がアイデンティティを確立しにくく、揺らぎやすい時代になっていると思いますが。

 そうですね。逆に、そういう揺らぎがあるからこそ、それを最小限にとどめようとして、学校信仰が強化されているという面があるように思います。そういう意味では、今も楽にはなっていないでしょうね。

 私は学校がイヤで登校拒否したのに、大学にずっと残って、教員になりました。

 アメリカでも出世レースは厳しくて、学生もそこに巻き込まれたりしますが、教員はそれに引き裂かれつつも、それとは別の価値観をも示すことができたらと思うんですね。

 台風の目ではないですが。私もそういう時間と場所を提供できたら、元登校拒否のひとりとしては、願ったりかなったりです。

――ありがとうございました。(聞き手・山下耕平)

(ともなり・のぼる)1962年生まれ。9歳から12歳までイギリスで過ごし、帰国後の中学校で不登校に。中卒認定を取得して通信制高校、大学、大学院へ進学し、現在はカールトン大学准教授。専門は日本文学・大衆文化。日本のマイノリティ(在日・アイヌ・部落・沖縄人)の文化表象などを研究している。

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