長井三春さん(18歳/仮名)は通信制高校3年生。小学校高学年から不登校が始まった三春さんに、これまでの経緯をふり返っていただいた。(文・大塚玲子)
* * *
三春さんが「性格をとりつくろう」ようになったのは、小学校に入ってまもなくのことでした。
「幼稚園のときからいじめられる性格だったので、小学校に入ってからまわりを観察して、『どういう子だと友だちができやすいか』を研究したんです。ハキハキしているとか、勉強ができるとか、運動ができるとか。自分もそうなればいいかな、と思って取りつくろうようになりました」。
研究のかいもあってか、このころの友人関係は表面的には良好でした。でも、自分をとりつくろうのは疲れることです。小学校高学年のころから「学校に行きたくなくなる時期」や「行けない時期」が増えてきました。
「友だちと話が合わないのは感じていました。まわりの子たちはジャニーズやマンガの話が好きだけれど、私はお父さんの影響もあって、深い話が好き。政治の話や小説を読むのが好きだったし、おしゃれやメイクの好みもみんなとちがっていて。表面上は話を合わせているんだけれど、『私の本当の中身を知られたらやばいな、幻滅されるな』と思っていました」。
友人関係がギクシャクし始めたのは小5のころ。中学受験を決めたのは、友だちと離れたい気持ちもあったからでした。
それまで習いごとは週1日だけでしたが、受験を決めてからは塾に週5日通うように。遊びに誘われても断らざるをえず、距離を置かれるようにもなり、「だったら、もういいや」と思ったそう。
不登校が始まったころ、同級生から受けたいじめは、誰にも言わないつもりでした。卒業して私立の中学に進めば同級生たちとは離れるので、それを待てばいいと思っていたのです。
でも、そのころ、不登校は学校中で三春さん一人だったため、学校も親も大騒ぎでした。とにかく「学校に行くことがすべて」というようすで、毎日先生が家を訪れ、親も三春さんをひきずり出そうとします。
あるときは、両親がいないあいだに「誰か」の車に乗せられ、学校に連れて行かれそうになったこともありました。
受けたいじめがなかったことに
「こんなことまでされるんだったら、原因を言って『だから行きません』って言ったほうがいいのかなと思って、いじめのことを親に言ったんです。そうしたら学校で大問題になり、私が休んでいるあいだに学級の話し合いがあって、そこで勝手に『いじめはありませんでした』ということになってしまった。人を信じてもよいことないな、って思いました」。
自暴自棄になった三春さんは塾に行くのもやめ、家にひきこもるようになります。
ようやく学校に顔を出したときは、「いじめはなかった」ことにされていたため、「友だちに濡れ衣を着せたんだから、謝りなさい」と校長から言われます。
この学校にこれ以上、娘を通わせられないと判断した両親は、法律を調べなおし「勉強は塾で行なわせる」と学校に宣言。
学校はなかなかあきらめてくれず、三春さんが通い始めた適応指導教室に校長が乗り込んできたこともありましたが、ほかの先生を通して話をした結果、なんとか落ち着くことができたそうです。
受験は残念ながら、うまくいきませんでした。面接の際、「聞かれないだろう」と塾の先生からも言われていた不登校のことを聞かれ、何も答えられなかったということもありました。
そこで卒業後は、家の近所にある公立の中学に進学したのですが、同じ小学校の子も大勢来ていたため、三春さんにとってはつらい環境でした。
露骨な競争視線が怖く
「中学では誰が何位で偏差値がどれくらい、って成績が露骨に出るのも苦痛でした。私は学校に行っていないけれど、家で勉強をしていて成績はそこそこよかったので、たぶん陰で何か言われているな、まわりの視線が怖いな、と感じるようになって……」。
1年生や2年生のときは、ほぼ不登校。3年生のときだけは「元ヤンみたいな」担任やクラスメートに恵まれて「唯一、通えていた時期」だそうです。
3学期にはふたたび通うのがつらくなります。受験が近づいてみんなピリピリし始め、三春さん自身も疲れが出ていました。
このころ、学年主任から呼び出されて注意を受けたことで、「やっぱり学校の先生には何を言ってもムダ。卒業式なんか出てやるもんか」と思うようになったと言います。
「そうしたら、担任の先生から猛アプローチが来たんです。『小学校のときも卒業式に出ていないなら、なおさら絶対に一度は出たほうがいい』って。それで前日の練習だけ出て、式に出たんですけれど、行っておいてよかったです。最後にクラスの子たちともちゃんとあいさつできたし、そのおかげで今も3年のとき仲がよかった子とは関係が続いています」。
学年主任とちがって、担任は「三春さんにとって必要なこと」を考えてくれたことが、大きかったのかもしれません。
「担任を好きになったのは、この猛アプローチがあったから」と、三春さんはふり返ります。
高校は第一志望だった県立高校へ。同じ中学の子もひとりしかおらず、今度こそ通えるかもしれないと思いがんばってみたのですが、怖さが拭えませんでした。
行かなきゃと思うのに、どうしても行けない。自分でも行きたかった高校なだけに、通えないのはよけいにつらいことでした。ストレスのためか、6月、7月には声が出なくなってしまいます。
「このころは、高校を卒業しないと人生が終わると思っていました。高校に行かない人が当時はまわりにいなかったから。お母さんやお父さんからも『今の時代は、大学に行かないとだめだ』って言われていたし、祖父母も高校に合格して大喜びだったから、申し訳ないなって。『こうしたら死ねるな』って、頭をよぎることもありました」。
どん底だから視野を広げよう
このままの状態ではよくない。そう思った三春さんは、お父さんと話をして「視野を広げよう」と決めます。
そこで最初に足を運んだのが、子どもや若者にプロジェクト型の問題解決学習を提供する「青春基地」というNPO法人でした。
「昔から文章を書くのが好きだったので、ライターの仕事をしようと思って『高校生+ライター募集』でググったら、青春基地にたどり着いたんです。ここに入って、すごく価値観が変わりました。学校だけじゃないんだな、私にもちゃんと居られる場所があったな、とわかったので。それで、転校してもいいなって思うようになりました」。
三春さんが転校を考えたのは、通信制の高校でした。なるべく学費が安く、かつおもしろいところを探して検討した結果、選んだのは「N校」。その年の春に開校したばかりの、ネットを使った通信制高校でした。
それまで在籍した県立高校からは、転校(退学)は思いとどまり「休学」にすることを強く勧められました。
でも学校へ行けばあいかわらず声は出なくなるし、おなかも痛くなってしまいます。休学しても通えるようになるとは思えず、三春さんは決心を貫きました。
「N校に行って、生活が本当に変わりました。ネットコースだから学校に行くのは年に5日だけなんですけれど、slack(チャットや通話ができるコミュニケーションツール)でいろんな子と仲よくなって。そのうち、あるグループで知り合った子たちに『今度みんなで遊ぶから来ない?』と言われ、渋谷や新宿でご飯を食べてきたりするようになりました。文化祭(ニコニコ超会議)の実行委員をやったり、同好会の会長をやったり、N校ではいろんなことをやりました。文化祭実行委員はブラック企業なみに忙しかったし、たいへんなことも多かったけれど、このときずっといっしょだった子たちとは今でもすごく仲がいいです」。
気持ちの整理行動とともに
青春基地、そしてN校。新たな居場所を見つけたことで、三春さんの行動範囲は大きく広がりました。
また、公立高校をやめてすぐ自分のブログを立ち上げたことも、気持ちを整理するのに役立ったそう。
学校以外でも、生きづらさに光を照らす「ヒカリテラス」という言葉の発信地(WEB媒体、ラジオ)も始めたりと、三春さんはいま、忙しい毎日をすごしています。
話を聞いていると、中学までの彼女はどこへ行ったのかな、と思えてきます。でも、「以前と比べて自分は変わったと思う?」と尋ねると、こんな返事が返ってきました。
「まわりが変わっただけで、私自身は変わっていないんです。正直、私は今も人間が怖いし、話すのも苦手だし、自分の嫌いな部分も変わっていません。今はこんなふうに話しているけれど、地元に帰ったら顔もあげられないで、急いで帰るんです」。
かつての三春さんと今の三春さん。別人のようでも、じつはそうではないのです。
「よく『どれが私?』と思ったりします。小1のときから性格を取りつくろっていたし、ネットでキャラを変えていたこともあるし。使わないでいたもともとの性格が消えたような感じがして、私の個性が抜け落ちた、と感じているんです」。
“本当の三春さん”がどんな人なのか? 一度会っただけの私にはわからないですが、三春さんが「これかな?」と感じているどれもが全部、三春さんなのかもしれません。
読者コメント