不登校新聞

524号 2020/2/15

「不登校をしたら行き場がない」と思ってた私が仕事に就くまで

2020年02月14日 16:31 by kito-shin
2020年02月14日 16:31 by kito-shin

 小学校1年生で不登校をし、現在は児童養護施設や学童で支援員として働く久美子さん(31歳/大分県在住)。不登校中、もっとも苦しかったことや、安心できる「居場所」を見つけるまでの経緯などをうかがった。

* * *

――不登校になったのはいつごろでしょうか?

 学校へ行けなくなったのは、小学1年生の終わりごろのことです。入学当初は食べられていた給食のにおいが受けつけられなくなって、徐々に学校に行けなくなりました。

 その当時の記憶はとてもあいまいなんですけど、髪や服についたにおいにとても敏感で、一日に何度も手を洗ってしまうこともあったと思います。

 1年のときの担任は新卒の先生でしたが、放課後に公園へ連れて行ってくれるなど、積極的にケアをしてくれました。

 私も友だちと遊びたいし、学校がきらいだとは思っていませんでした。それでもなぜか学校には行けず、2年生になると本格的に不登校なりました。

理由がない、だから苦しい

 今、ふり返ると学校独特の雰囲気や、その環境での生活様式が合わなかったのだと思います。

 しかし、当時の私にはそれらを言葉にすることができず、まわりはもちろん、自分自身でも「行かない」ことに納得できるだけの理由が見あたりませんでした。

 「理由がない」ということに悩む時期は、長く続いていました。

――そのころ、学校のほかに居場所はありましたか?

 私の地元・大分県中津市にフリースクールはありませんでした。フリースクールという言葉を知ったのも、小学校高学年になってからのことです。

 そんな環境のなか、地域で安心して通える学校以外の場所を見つけることはかんたんなことではありませんでした。

 最初に出かけるようになったのは、小学2年生か3年生のころに母親が参加し始めた不登校児童の親の会です。

 私を入れて5人から6人ぐらいの小・中学校の子どもたちが集まって遊んだことを覚えています。

 もうひとつは地元の行政が行なっていた「ふれあい学級」。こちらは週に数回程度、不登校のこどもたちが集まる場所で、中学生になってから何度か行ったことがあります。

 けれどなかなか通うというところまでは行かず、遠足などのイベントにだけ誘ってもらって参加していました。

 積極的に外へ出て行こうという気持ちになれなかったいちばんの理由は、周囲の目です。

 「ふれあい学級」は自転車で15分くらいの距離の古民家で行なわれていていました。

 ひとりで通える距離でしたが、先生に迎えに来てもらえるときしか行く気にはなれなかったんです。

 それだけの距離を昼間ひとりで移動するのは、心理的なハードルが高かったからです。

不登校の子とは遊ばせない大人

 まわりには「なんで学校へ行ってないの?」と聞く人がいました。なかには、友だちの家に遊びに行った私に「学校へ行ってない子とは遊ばせん」と直接言う人もいました。

 そのうちに「学校へ行ってないと遊んだらダメなんだな」という思いは、私の頭にすっかりこびりついてしまったのです。

 始業時間には間に合わないけど、途中からなんとか学校へ行こうとしたこともあったんです。

 けれど、それもかんたんなことではありませんでした。ほかの子どもたちが歩いていない通学路を、ひとりで歩いていくことがどうしてもできない。そんなときは、母に学校までいっしょに来てもらいました。

 このころ私は自分のことを、「変わってる子なんやろうな」と思っていました。みんなと同じことができない。そのことにいちばん悩みました。

――その後、見つけられた「居場所」について教えてください。

 ひとつ目は、日本舞踊のお稽古です。中津市には、地元の人たちに熱狂的に愛されている中津祇園というお祭りがあります。

 お祭りでは地域ごとに山車をひきます。そのうえで友だちが踊っているのを見て「私もあそこで踊りたい!」と思ったのをきっかけに始めました。小学3年生のころのことです。

 日本舞踊の先生は、私が不登校であるということを知りながら、あたたかく迎えてくれました。

 お稽古は週に1回。いっしょに通っていた友だちは年上だったので、その日、私が学校へ行っているかどうかもクラスがちがうのでわかりません。

 何より、私は祇園が好き。祇園が私の生活そのもの。だから、祇園のお稽古に行くときはまわりの目は気にしなくなっていました。

 地元では、祇園に命を懸けている人たちのことを祇園馬鹿と言います(笑)。祇園の始まりは一年の始まり、祇園の終わりは一年の終わりというように、彼らの生活の中心には祇園があります。

 日本舞踊を始めてから、7月の終わりにある祇園が私の生活の中心になりました。ふだんは家ですごしていても、暖かくなってくると「外に出なきゃ」という気分になるんです

 小学5年生のときに児童合唱を始めたことも、大きな転機になりました。この地元の少年少女合唱団では週に一度、市内の小・中・高校生が集まって練習をしていました。

 これをきっかけに音楽が好きになって、中学2年生のころからは毎週のように、地元を拠点に活動するインディーズバンドのライブにも行くようになりました。

過度な手洗いが止まったのは

 合唱団のメンバーは市内全域から練習にやってくるし、ライブで知り合った人たちには市外の人、年上の人もたくさんいました。

 その人たちは私が不登校だと知っても、「ああ、学校行ってない、そうなん」というリアクションでした。

 「ふつう」に接してくれる学校外の友だちがいるということ。学校を気にしないでいいということは、あのころの私にとってすごく安心できることでした。

 手洗いが止まらなくなってしまう症状も、居場所ができるにつれてすっかりなくなりました。

 『不登校新聞』も、私の見つけた居場所のひとつです。小学5年生のころにネットで新聞の存在を知り、母に頼んで購読を始めました。

 そのうち、当時は月に1回行なわれていたチャットにも参加し始めたのですが、地元では圧倒的少数派だった不登校の子どもたちが、「全国にはこんなにたくさんいるんだ!」ということに驚きました。

 みんなと話していた内容は、本当にふつうの世間話ばかりですが、それでもこのチャットは学校へ行ってない者どうし、同じような立場どうしの人と会話をできる、とても貴重な機会でした。

 その後、当時存在していた「不登校新聞のメーリングリスト」のオフ会で受付をするために、東京にも行くことになりました。

 「いつもチャットしてるみんなに会える! 行きたい!」というワクワクが不安を吹き飛ばしてしまったし、「東京へ行くのだから」と初めて携帯電話を買ってもらい、ひとりで新幹線に乗って東京という遠い場所に行けたことも、当時中学2年生だった私にとって大きな自信になりました。

 地元には不登校の子がとても少なかったけど、オフ会の会場はとてもにぎやかで、全国には同じ立場の人がこんなにたくさんいるんだ、ひとりじゃないんだと思えました。

――学校以外の居場所は、どんな存在だったのでしょうか?

 私にとっては、成人した今でもとても大切な存在です。祇園の山車の上では20歳ごろまで踊っていましたし、その後はほかのまちの山車もひきました。

 日本舞踊は成人してからもずっと続けていて、昨年の春には師範になりました。音楽も今でも好き。

 不登校になってから見つけた居場所が、今の私の基礎になっていると感じています。

子どもと関わる仕事がしたい

 私は現在、学童と児童養護施設の支援員をしています。保育士などの資格は持っていませんが、子どもが好きで、子どもに関わる仕事がしたいとずっと思っていました。

 縁あって学童の支援員になることができ、今は同じ敷地にある児童養護施設でも補助の仕事をしています。

 子どもたちが置かれている環境は、私たちのころとはずいぶん変わってきているんだなと感じます。

 今は授業の時間が長い。そして、習い事を複数している子もたくさんいる。結果、精神的、時間的余裕がない子どもがとても多いと感じます。

 学校でも家庭でもがんばっている子は、学童で感情を発散させて精神的なバランスを取っています。だから、素の自分を安心して出せる居場所はとても大切です。

 学童が受けいれるのは小学校3年生までの子どもたちですが、受けいれられるあいだは子どもたちが感情を発散できるよう、しっかりと支援をしていきたいです。

 子どものころにたくさん悩んだからこそ、私は子どもたちの居場所をつくりたいと思うようになりました。

 今はどうしたら子どもたちが楽しい時間をすごせるか、日々、一生懸命考えながら支援に取り組んでいます。

 もし私が小学生のころに学童のような居場所に出会えていたら、その存在がきっかけでまた学校に復帰できていたかもしれないなと考えることがあります。

 地域のなかにあって心から安心できる居場所。多くの子どもたちにとって、学童はそんな存在になれるんじゃないかなと思っています。

――ありがとうございました(聞き手・石井志昂、編集・鯨井啓子)

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