虐待、親の自殺、ホームレス…
虐待、親の自殺、ホームレス生活など、過酷な状況を生きてきた、歌人の鳥居さんにお話をうかがった。
――まずは、生い立ちからうかがいたいのですが。
両親は私が2歳のときに離婚していて、父の記憶はありません。離婚後、母は私を連れて実家に戻りました。だけど、母は子どものころ、祖父母に虐待されていたらしく、祖父からは性的虐待も受けていたようです。
幼稚園のころ、ふつうは絵本を読んでもらったりアニメを見て過ごしているだろう時間に、私は祖父母の悪口ばかり 聞かされて、ときにはいっしょに「死ね」と叫ぶことを強要されたり、「あんな奴らの血が自分に流れていると思うとぞっとするだろ」とか、「おまえなんか産 まなければよかった」「おまえがいるせいで私は不幸だ」といったことを、いつも言われていました。だけどそれでも、私はずっと母が好きでした。物心ついた ころから、私のせいで母が不幸なら、自分は死ぬべきじゃないかと感じていました。
――小学校中退ということですが?
4年生のとき、ある日突然、母が「そうだ東京に行けばいい」と言い出して、3日後に家を出たんです。「祖父母に知られてしまうから誰にも言っちゃいけな い」と言われていて、クラスのお別れ会もできませんでした。しかも、住む場所も決めずに出てきて、安い民宿に泊まったりして、その間の数カ月、学校にも行 けない。
その後、アパートに入居し、学校に行くようになってからも、家に帰ると母からは「おまえはいいよね、友だちと遊んできて楽しく
て。私は今日もさみしかった」と責められていました。母にとって私は、子どもというより相談役、看病役でした。毎日、帰宅すると、母はうめいていたり、吐
いていたり……じめじめしていて、悪口ばかりで、しんどかったです。
ある日、母が…
5年生のころ、「なんで私の家は こうなんだろう?」と思えてきたんです。思春期の入口で、親を客観的に見はじめた時期だったんだと思います。とうとうある朝、「こんな家イヤだ、出たい。 学校から帰ってきたら家出する!」と言って学校に行ったんです。ほんとうは「家出したいくらいイヤなんだ」ということを伝えたかったんですね。でも、その 日、学校から帰ってきたら、母は自殺していました。まだ、完全には死んでいなくて、でも、どうしたらよいかわかりませんでした。母から 常々、「やっと見つけた住まいで、騒ぎを起こして住めなくなったら困るから目立つことをするな」と言われていたんです。だから、救急車を呼んだら母に怒ら れると思って、そのまま数日、昏睡状態の母と過ごしていました。母は、どんどん灰色になっていって、私は死んでほしくないから、耳元で叫んだり、揺り動か したり、子どもの知恵で、暑くて寝苦しくなったら起きるんじゃないかと思って、ふとんをかけたり、起こそうといろいろ試したんですが、起きない。何日かし て、ようやく学校で保健室の先生に打ち明けて、先生と一緒に帰宅したとき、母はもう息がありませんでした。
――その後は?
新宿の児童相談所に一時保護され、地元の三重県の養護施設に入りました。新宿の一時保護所でも、三重の養護施設でも、ひどい虐待がありました。一時保護所では、あざが残るほど殴られたり、母が死んだことも私のせいのように言われたり……。
数日間、監禁されたこともあります。高熱が出て、立っていられなくて、掃除ができなくなったときには「ほかの人にうつったらよくない」と いう理由で倉庫に閉じ込められました。どんどん熱は上がるし、ご飯も届けてくれないので、「これは死ぬな」と思いました。私が死んだら、養護施設の虐待が 社会問題になって、虐げられている子どもたちに光があたるんだから、私の死もムダにはならないと思っていました。何日後だったかわかりませんが、職員が倉 庫に物を取りに来て、「あ、いたんだ」と。忘れられてたんですね。「私、死ぬと思う」と言ったら、「遺書書けば?」と言われました。
ほかにも、 養護施設では服も満足に支給してもらえず、真冬でも半そで半ズボンの体操着2枚しかないなど、劣悪な環境下、虐待もあって、心が絶望して枯れきって、私は 学校に行ける状態ではありませんでした。不登校というと、私が自分の意思で行かなかったように誤解されがちですが、虐待によって引き起こされた問題で、施 設の責任だと思います。虐待の影響は、身体などの目に見える部分だけじゃないんです。
養護施設での虐待は、めずらしい話ではありません。だけど、養護施設出身で、養護施設のことを語れる人はいない。そもそも、養護施設出身であることも言えない。語ることのできるのは、いい思い出のある人だけです。
――養護施設はいつまで?
中学卒業後、ひとり暮らしをしました。このころ、バイトをして、少しですが貯金もできました。ただ、バイトも無理がきかないんですね。人が苦手で怖くて、 ノイローゼのような状況になってしまう。笑顔でいられるのは1時間くらい。人が怖くて仕方がない。それでは生活できない。少しバイトしては辞めて、1週間 くらいで食べ物も尽きて、またバイトをする。パンの耳をかじって生活してました。また、叔父から生命の危機を感じるほどのいやがらせを受けていて、最後に は叔父から逃げるためにDVシェルターに避難しました。
その後、里親の家に行ったんですが、体調を崩したときに「そんな体の弱い人はいらない」と追い出されました。それで、行く場所を失ってホームレス状態になりました。
――どこか相談した先は?
まだ未成年で児童福祉の対象年齢だったんですが、児相に一時避難させてくれと相談しても、とりあってくれませんでした。
仕方なく、夜はマンガ喫茶、昼はデパートで過ごしていました。ポテトチップスを2日間に分けて食べたり、公園の水で髪を洗ったり、ひどい生活でした。ずっと寝てないし食べてないしで疲労しきっていて、正常な判断ができなくなって、危ない目に遭ったこともありました。
数カ月、そういう状態が続いて、シェルターのときに働いて貯めたお金で、大阪に来て、アパートを借りました。しかし、いまは収入もなく、このままだと来月の家賃も払えない状況です……。
義務教育を学びなおしたい
義務教育を受けていないので、一人前になれていないような気がするんですね。本を読んでいてもわからないことがいっぱいある。たとえば「3割引」と描かれ ていても、いくら安いのか、ぱっとわからない。そういうことが、いろいろあると思うんですね。湯浅誠さんとお話したとき、「いまの社会は義務教育を終えた 前提で成り立ってるから、それは生きづらいよね」と言ってくれました。生きていくうえでこれだけは覚えておいたほうがいいということを、学びなおしたい。
ところが、夜間中学校に入ろうと思ったら、かたちだけ中学校を卒業しているので入学できない。これは、おかしい。私だけの問題じゃなくて、学びなおしのシ ステムができたら、不登校の人もすくわれると思います。私は教育を受ける権利を奪われたんです。義務教育を受けたいというのは、当然の権利だと思います。 義務教育の義務を果たしてほしいです。――短歌はいつごろから?
もともと、美術がすごく好きで画家になろうと思っていたんです が、思い詰めすぎて苦しくなってしまったんです。短歌と出会ったのは最近です。短歌は、知的欲求を満たしてくれました。すごく、おもしろい。それに、生き づらい人は短歌に向いていると思うんです。ほかの人が気づかずにやり過ごしてしまうようなところで、立ち止まってしまう、そういう人だからこそ表現できる ことがある。短歌は、生きづらさを「武器」にできると思います。
――ありがとうございました。(聞き手・山下耕平)
■鳥居(とりい)
三重県出身。虐待経験、親の自殺、ホームレス生活など、10代から過酷な状況を生きてきた。義務教育を受け直したいという意思表示として、セーラー服を着て いる。短歌を詠み、現代歌人協会の2012年の全国短歌大会で、穂村弘さん選で佳作に選ばれた。学びなおしのためのカンパも募っている。
■ブログ http://toriitorii.exblog.jp/
■ツイッター @torii0515
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